清水亮 今このタイミングでハッカソン開催を呼びかけたワケ。今回のGPT-4のアップデートが何をもたらすか、おそらく世界で誰もまだ分かっていない
使い方が完全には想定されないまま世に放たれる技術
ともあれ、OpenAIの中にいる人の中に、僕のように日常的に本を書いたりする者はそんなにいないはず。だからこそOpenAIの社員でも、その技術がもたらすこうした変化が、どういう意味を持っているのか、具体的にはわかっていないのではないだろうか?
テクノロジーを開発した当人が、その使い方を完全には想定できていない、というのは決して珍しい話ではない。むしろそのテクノロジーに可能性があればあるほどその傾向は強まる。
たとえば昔、NECが最初のマイクロコンピュータを開発したとき、その用途が全くわからなくて、とりあえず「トレーニングキット(TK-80)」という名称で売り出したのがいい例だ。
TK-80の発売は1976年8月3日。奇しくも、筆者が生まれた一日後である。そんなことから、エンジニアだった筆者の父親は赤ん坊だった筆者とマイコンを兄弟のように捉えていた。物心つく前にコンピュータに触れ、小学校二年生頃には父親よりもプログラミングに詳しくなっていた。
TK-80が備えた可能性は、発売した当人たちにとっても、理解しきれないものだったろうが、それよりもっと理解不能だったのは、それが爆発的に売れたということだ。
売れるのはありがたいが、そもそもなぜ売れていて、どんな使われ方をしているのかがわからない。そこでNECは、秋葉原にお店を作り、ユーザーと直接に交流することで情報を集め始めた。
明らかになったのは、使われ方が千差万別だったということ。「これに使う」というよりも、「あんなことにも使える、こんなことにも使える、あ、もしかしてこんなことにも使える」というように、用途が絞られるのではなく発散していった。これは当時にしては大変奇妙な現象だった。
コンピュータは当時、世界で最も高価な製品の一つだったので、購入できたのは主に政府や大企業に限られた。そして彼らは当然、使用目的を考えてから購入していた。
ところが、新しく発売された個人用の比較的安価なコンピュータは、使用目的を考える前にまず購入し、そのあと何に使えるかを考えた無数のホビイストたちの手によって可能性が開拓されていったのだ。
同じように、GPT4などの人工知能技術も、ただそこにあるだけではその可能性が全く理解されず、広まることもないだろう。だからこそ、OpenAIは、早々に一般向けにGPT4の機能を開放し、その可能性を世界中のユーザーとともに探索する道を選んだのである。