掲載されなかった井伏の「問題作」
小林が井伏から「侘助」という小説の原稿を受け取ったのは翌年の二月の終わりか、三月の初めだった。作品は来たものの、「創元」には掲載されなかった。その事情は井伏の小説集『侘助』の「後記」で明かされている。
「敗戦の年――昭和二十年度には私は五枚の随筆を一つ発表しただけで、但し日記だけは殆んど毎日つけていた。その頃は、自分の貧弱な空想でまとめた物語などよりも、庶民の一人として経験する実際の記録の方が、文字として幾らか価値があると思っていたからである。(略)とにかくそんなわけで私は一年あまり原稿を書かなかったので、今年[昭和二十一年]の二月になってから久しぶりに原稿用紙に向うときには何か照れくさいような気持がした。そのときの原稿が「侘助」である。これは創元社のクオタリイ[季刊誌]に送ったが、発刊が延びたので返してもらって「改造」と「人間」に分載した。私の書きたいのはその続きだが、書きたくても書けないところを一行アキにすることもあるように、自分の手に負えないので筆をとめた」
「創元」刊行が延び延びとなっているために、井伏は原稿を取り戻し、前半を「改造」(昭和21・5)に、後半を「人間」(昭和21・6)に発表した。小林に送られてから割合すぐに原稿は井伏に戻っている。「一大長編」ではなかったが、「侘助」はかなりの「力作」である。私は「編輯者」小林秀雄になったつもりで、「侘助」を読んだ。舞台は井伏の好きな甲州で、五代将軍の「犬公方」徳川綱吉の治世のお話である。「生類憐みの令」に背いたとして捕えらえた罪人たちが「島流し」となっているのが、富士川の中洲そのものである「波高島」という場所だった。主人公の「侘助」は流罪人だが、オスギ、オモンという二人の女性に惹かれている。時世と無関係な、のんびりとした滑稽譚、艶笑譚としてずっと読んでいくと、最後の二頁で、突然のカタストロフィが波高島を襲う。明暦の富士山大噴火により、波高島は「神かくし」にあったように、水中に没する。罪人と役人あわせて十四人が行方不明となり、労役で島を出ていた百一人は助かる。「在家のものも悉く家居を失い、流人同様の仕儀」となる。
「侘助はつい偶然に、波高島が地滑りする瞬間の光景を目にとめた。川の水が逆流したと思われた。同時に島全貌が、純白の大きな竜巻きに化けてしまった。その竜巻きが川に吸いとられるように見事におさまって行くと、あとには島の姿が消え、川の水が津波を寄せて岸を洗っていた。(略)川の高波がおさまると、島のなくなった川は、のっぺらぼうで間が抜けている風景のように見えた」
ラストシーンの一部を引用したが、無辜の民たちが囚人として収容されている島(中洲)、そこが忽然と消え、爆心地のような光景が拡がる。井伏が後に『黒い雨』で原爆を描くことを知っているから余計にそう思うのかもしれないが、「侘助」が原爆を念頭に書かれていることは明らかといえる。井伏が「何か照れくさいような気持」で原稿用紙に対したのは、この大きなテーマを扱うということもあったのではないだろうか。「侘助」は傑作とはいえないが、井伏なりの「力作」、問題作だった。