八月十五日以後、小林秀雄の「沈黙」と「戦後第一声」②

平山周吉(ひらやま・しゅうきち)

もし予定どおり掲載されていたら......

 もし「侘助」が予定通りに「創元」に掲載されたなら、どう受けとめられただろうか。そんな問いが頭をよぎるのは、「創元」という雑誌には、未掲載となった別の戦争文学が、少なくとも二つはあるからだ。吉田満の「戦艦大和ノ最期」と大岡昇平の「俘虜記」である。私がいま執拗に、「創元」編輯部の小林秀雄の後ろを追おうとしているのは、実際に発行された二冊の「創元」だけではなく、小林が企画し、依頼し、発掘した幾多の作品をも念頭に置いて、敗戦直後の小林秀雄を見届けたいからだ。

 井伏の『侘助』は昭和二十一年の十二月に、鎌倉文庫から発売された。後半が載った月刊誌「人間」も鎌倉文庫から出ていた。「鎌倉文庫」はもともと鎌倉に住まう文士たちが戦時下に、自分たちの蔵書を持ち寄って貸本屋「鎌倉文庫」を開いたのがスタートだった。敗戦直後に、そこから発展して出版社「鎌倉文庫」となり、わずか五年の寿命だったが、大成功とたちまちの倒産となった。社長には「鎌倉文士」の最長老の里見弴が推されたが、里見は固辞し、久米正雄が社長、川端康成が専務、高見順が常務、中山義秀が取締役、大佛次郎が監査役となった。小林は里見らと共に「参与」となるが(高見順日記、昭和20・10・15)、肩書だけだったろう。小林にはすでに「創元」があり、さらにもうひとつの媒体がまもなく小林に託されることになる。

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