「僕は無智だから反省なぞしない」――戦後の小林秀雄は、このあまりにも有名な発言にはじまる。しかしその前、敗戦からの半年間、彼が何を考えいかに過ごしたのかは知られていない。年譜の空白部分を書簡や日記などから明らかにし、批評の神様の戦後の出発点を探る。
八月には始まっていた「文学雑誌」の編輯
吉野の短歌連作を得て、「創元」は「鎮魂」というテーマを雑誌に導くことになる。それは偶然だったのかもしれないが、編輯作業の続く翌年には必然と化すだろう。「創元」第一輯で、吉野秀雄の短歌の次の頁からは小林の「モオツァルト」が始まる。見開きの右頁が吉野の短歌で、左頁はタイトルの「モオツァルト」、著者名の「小林秀雄」だけでなく、「母上の霊に捧ぐ」とある。小林の最愛の「おっかさん」は、「モオツァルト」執筆中に六十六歳で亡くなる。
「短歌百余章」を含む吉野の歌集『寒蟬集』は昭和二十二年(一九四七)十月に創元社から出版される。その二ヶ月前には、やはり創元社から吉野は『鹿鳴集歌解』を出す。吉野の師・会津八一が古都奈良を詠んだ『鹿鳴集』(創元社、昭和15)を鑑賞した本だ。吉野の日記を読んでいると、小林は吉野を通して新潟に疎開している会津八一にも短歌の原稿を依頼したようだ。会津は多くの雑誌から依頼があり、ほとんど「謝絶」していた(吉野宛て書簡、昭和20・12・29)。
小林が季刊の「文学雑誌」の編輯を開始したのは八月の末からだったらしいと段々わかってきた。紙や資金の手配が出来ていたにしても、早い出足である。小林はまだ暑さの残る町を闊歩して、原稿を探し求めている。歩く先はまず手始めに鎌倉だったとしても、手紙での依頼もある。東京まで出て、訪問をしているケースもあった。成城学園に住む柳田國男を訪問したのは九月七日だった。柳田は昭和十九年、二十年の丸二年間の日記を『炭焼日記』(修道社、昭和33)として公刊した。その中にも「編輯者」小林秀雄がいる。
九月七日「小林秀雄君始めて来る。雑誌を創元社から出すから助力してくれという相談なり」