八月十五日以後、小林秀雄の「沈黙」と「戦後第一声」(下)

【連載第三回】
平山周吉(ひらやま・しゅうきち)

載らなかった柳田國男の原稿

 創元社と柳田國男との関係は深い。昭和十三年(一九三八)から始まった「創元選書」の一番の柱は柳田の著書であり、戦前戦中に計十四冊がラインアップ入りした。創元選書の第1番は『昔話と文学』で、その後、『木綿以前の事』『国語の将来』『民謡覚書』『妹の力』などの新作、『雪国の春』『秋風帖』『海南小記』などの旧作の再録もある。昭和十年代の柳田ブームを演出したのが創元選書といえる。小林は「創元選書」の事実上の編輯長だった。であるから、「始めて」とは初めて会ったということではなく、初めて家まで訪ねて来たということではと思われる。柳田に協力を要請した翌週もまた訪ねて来る。

 九月十四日「小林秀雄君再び来る、神道の研究の話をする。二十三夜の原稿を渡そうとして捜しても見えず、小林勇氏[岩波書店。岩波茂雄の女婿]の話をきく」。

 先週来た時に、原稿の件はすでに伝えてあったのだろうか。柳田が「創元」のために渡そうとした原稿は『年中行事覚書』(修道社、昭和30に収録されている「二十三夜塔」と思われる。原稿用紙にして七十枚ほどある作品だ。翌月の五日には、小林の代理人が来た。「西村孝次氏来る、創元社雑誌のこと、小林秀雄君従兄のよし、永く話してかえる」。原稿がどうなったか、これだけではわからないが、いずれにしても原稿は見つかり、小林に届けられたようだ。十一月八日になって、「創元社より「二十三夜塔」の原稿料送り来る」とあるからだ。

この原稿も「創元」には載らなかった。といっても、井伏の「侘助」と違い、作者の都合で引きあげた様子もない。「二十三夜塔」が初めて発表されるのは、昭和二十五年(一九五〇)の「源流」という雑誌の創刊号である。「源流」は國學院大學が総力をあげて出す、折口信夫編輯の総合雑誌で、創刊号で小林は折口信夫と「古典をめぐりて」という対談をしている。柳田は「二十三夜塔」はそうしたハレの場にふさわしい自信作だと考えていたのか。柳田にとって折口は弟子にあたる。

『炭焼日記』を読むと、柳田は戦争中には創元選書のために『毎日の言葉』を執筆しており、創元社の秋山孝男が原稿取りに来ている(昭和191220。戦争が終わると、別の社員が来た。「創元社の佐古[純一郎。後に文芸評論家]君及今一人来、二人とも復員、佐古君は対馬の竹敷に在りきという、きょうの用は『毎日の言葉』の編集について也」(昭和201222。『毎日の言葉』は翌年の七月に創元選書として刊行される。

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