「僕は無智だから反省なぞしない」と語った小林秀雄の戦後の始まりとは。
敗戦・占領の混乱の中で、小林は何を思考し、いかに動き始めたのか。
編集者としての活動や幅広い交友にも光を当て、批評の神様の戦後の出発点を探る。
敗戦・占領の混乱の中で、小林は何を思考し、いかに動き始めたのか。
編集者としての活動や幅広い交友にも光を当て、批評の神様の戦後の出発点を探る。
机の上に拡げたままの「モオツァルト」
上海と南京の小林について知っているもうひとりの人物がいる。この人物は門屋博といい、林房雄とは東大新人会以来の友人だった。門屋は転向した後に、大陸に渡り、汪精衛の和平運動に関係し、昭和十五年(一九四〇)からは南京で、汪精衛政権の近くにいた。昭和十八年(一九四三)、旧知の林房雄が突然南京に来て長逗留する。南京や上海は国内にくらべ、食料は豊富で居心地はよかった。
「そのうち小林秀雄さんがやって来てお客様の中に加わった。それに林伯生の宣伝部の応援に来ていた草野心平さんが、随時参加して酒宴となると壮観であった。談論風発で酒も議論も尽きるところがないのである。(略)六年間の南京生活のうち、この何ヶ月かは最も楽しい時間であったと思う」(門屋「林房雄との五十年」)
河上徹太郎も今日出海も来た。満洲からは山田清三郎が来た。みな大東亜文学者大会のためである。門屋は小林に明け渡した自分の書斎で、小林の書きかけの原稿を見かけている。
「留守中そっと覗いて見ると、机の上に原稿用紙が拡げてあって、ただ一行「モーツアルトがウィーンの旅に上るとき」と書いてあった。南京を去られる時までそのままであった」
書きあぐね、破棄された「モオツァルト」の第一稿なのだろうか。この門屋の文章「林房雄との五十年」(「民間伝承」昭和51・4)は、岩田幸雄編『消えぬ夢』(昭和57・6刊)に再録された。生前の小林が目にする機会はあったろうか。『消えぬ夢』の口絵の写真には、岩田、林房雄の他に、青山二郎夫妻と白洲正子も写っている。編者の岩田幸雄は児玉機関の四天王と呼ばれた男で、広島のモーターボートレースのドンであり、林房雄(「武器なき海賊」)と今日出海(『海賊』)の小説のモデルとされる男だ。