地震と津波の傷は癒える
震災体験者として言えることの一つは、天災の被害からは人は必ず立ち直れるということである。阪神・淡路大震災の直後は、「これだけ破壊された街はもう回復することはないだろう」と思っていた。しかし、驚くべきことに、一年後にはもう街は復活していた。蟻が角砂糖の粒を運んでいくように、少しずつではあるけれども、瓦礫の山は消えた。荒れ果てていた街に花が咲き、鳥が歌っていた。そのとき「自然の強さ」とともに、「人間の強さ」を感じた。
日本列島は地震と噴火と津波と台風のリスクにつねにさらされている。天災は列島住民にとって不可避の運命である。だから、私たちは「天災にどう対処すればいいのか」を国民文化として知っている。それは親を亡くす経験に近い。個人的には恐るべき不幸であり、取り返しのつかない喪失感をもたらすけれど、それはある意味避けることのできぬ不幸である。そして、私たちは誰でもそこから立ち直る。
列島住民は自然災害を繰り返し経験し、そこから、より合理的な防災の備えはどうあるべきか、心身の傷からどう立ち直るかについてノウハウを蓄積してきた。被災地の人たちは、すでに受苦から復興へ、マインドセットを切り換える努力を始めている。
被災しなかったものの務めは国民全体を挙げて、被災者を慰め、励まし、支援するということに尽くされる。他責的な言葉づかいで行政を責め立てたり、法律や権限を言い訳に支援活動を停滞させることなく、あらゆる手段を尽くして被災者を支えるということについては国民的な合意が成り立っていると私は信じている。人は天災からは必ず立ち直れる。
福島原発の事故は人災だ
問題は、「人災」の方である。天災のもたらした苦しみは時間が経過すれば遠のくが、人間の無力や愚かさがもたらした災厄については、そうはゆかない。私たちは「なぜそのようなことが起きたのか」について長い時間をかけて精査し、同じ不幸の再発を防止する手立てを考えなければならないからである。天災は避けられないが、人災は避けられる。避けられたはずの不幸に対する悔いは私たちを苛み続ける。
なぜ福島原発事故は「人災」なのか。それは地震津波「以前」の備えと、「以後」の処理の両方について、重大な瑕疵が見られるからである。
震災「以前」に不足していたもの。それは、危機意識である。政府や東京電力は原発事故直後から、「こんなことが起こるとは思ってもみなかった」という「想定外」を繰り返した。想定外の天災に襲われたための事故であって、私どもに瑕疵はないと彼らは言った。だが、この言い分には聞き逃すことのできないことがいくつも含まれている。
一つはこの地震が「想定外」ではなかったことである。貞観地震(八六九年)は今回と同じく陸奥東方の海底を震源地とするM8・3以上の巨大地震である。このときは津波が平野部まで押し寄せ、千人を超える死者が出たと記録にはある。仙台平野には海が遡上した痕跡が複数回残っている。つまり仙台平野が水没するほどの地震と津波はほぼ千年周期で起きていたのである。
〇九年に東電から原発の安全性についての調査を委託されていた経産省の審議会は、貞観地震規模の巨大地震の再来可能性を指摘していた。これについて東電は「十分な情報がない」として対策を先送りした。現在の防災の水準では対処できない規模の地震の可能性が公式に指摘されていたのである。そうであれば、今回の津波について「想定外」だったという言い訳は東電にはできないはずである。「そんなに大きな地震は来るはずがない」という東電側の判断(というより主観的願望)に基づいて、「想定内」と「想定外」の線引きが行われている。「想定外」のものなど自然界には存在しない。「想定外」を作り出すのは「想定する主体」、すなわち人間だけである。
素人目に見ても不思議に思うのは、福島原発が海岸に設置された施設であるにもかかわらず、非常用発電機が水没しやすい海側に設置されていたことである。「ここまで水が来ると思わなかった」と東電は言い訳するが、普通ならば来ないところまで水が来るような「普通でない」状態のことを「非常」事態と呼ぶ。冠水しても機能に影響がないとか、地下深くに埋設されているとか、高台に置かれているとかいうごく常識的な設計変更によっても、非常用発電機が非常時にも作動した確率は高められたはずである。平常用の発電機と非常用の発電機を海側に並べて配置するという設計プランを見たときに「これでは非常用の意味がない」ということを述べた現場の技術者はいたはずである。その発言が抑圧されたのは、「非常時など来ない」という無根拠な楽観論と、「非常時を配慮してプラント設計すると、その分コストがかさむ」という算盤勘定のアマルガムが原発設計当時の「場の空気」を支配していたからだろう。