転機になった阪神・淡路大震災
一九九五年の阪神・淡路大震災では、文化遺産にとって二つの意味で重要な出来事があった。一つ目は、文化庁が被災した文化財の救出を行ったことである。
文化庁の仕事は、一般の人の目には、国宝や重要文化財などの「お宝」の保存・管理を行うことと映っているかもしれない。しかしそれは仕事全体の一部分でしかなく、著作権の保護や伝統芸能の継承など、範囲はもっと広く、文化遺産の防災も保存・管理業務の一部である。阪神・淡路大震災において文化庁は、いわば「お宝」をもっぱら守るという路線を転換し、その周辺の品々にも救出の手を差し伸べる活動に道を開いたのである。
二つ目は民間の人たちが、捨てられる運命にあった資料や本を救い出したことである。
神戸市内で震度七を観測した大地震では、家屋の倒壊や火災の発生、高速道路などのインフラの被害だけでなく、文化財の被害も多方面に及び、震源地の兵庫県下のみならず京都市内の仏像も被害を受けた。
しかし、市や町の職員は、避難所となった公民館や学校の体育館などに配置され、身を寄せる被災者への対応に忙殺された。神戸市の文化財担当者も被災者救護のために避難所などに張り付き、市内にある文化財の被害実態をほとんど把握できなかった。
被災文化財救出を担う能力が、被災地の行政には当面発揮できないと見た文化庁は、二月八日、古文化財科学研究会(現・一般社団法人文化財保存修復学会)などの四つの学術団体に参加を求め、救援組織(いわゆる「文化財レスキュー隊」)を立ち上げた。
この活動によって、例えば、兵庫県川西市に所在する栄根寺という一〇〇〇年以上の歴史を持つ寺院で、傾いた小さな薬師堂から平安時代の仏像が救出されている。
あるいは、兵庫県芦屋市にあった個人所有の写真スタジオでも救出作業が行われた。ここは大正から昭和にかけて活躍した中山岩太という写真家の木造二階建てのスタジオで、震災で倒壊の危険性が高まり、地元の美術博物館からの依頼を受けて中山の大型カメラやガラス乾板などの資料や作品が救出された。
ここで救出された品々は、国の文化財に指定されたものではなく、兵庫県や芦屋市の文化財指定も受けていなかった個人所有の、いわゆる「未指定品」である。所有者からの依頼で救出されたが、作業に踏み切るにあたっては、検討された問題もあったと聞く。文化財レスキュー隊は、国などの行政機関による作業という色合いが強いため、個人資産の維持に税金をつぎ込んでよいのか、という疑問は当然あるからだ。
しかし、救出しようとした指定品の脇に、未指定品が並んでいることは、現場で作業をする者にとってはよく出合う光景である。そこでは、指定品だけ選んで救出することは難しい。先の川西市の栄根寺で救出された仏像にしても、本尊の薬師如来坐像は兵庫県の指定文化財であったが、周囲に安置されていた十二神将などは指定されていない。それでも、現場の作業員は未指定品も含めて、すべて救出したのである。
個人所有といえば、神戸市中心部の個人宅に保管されていた蔵書(洋書や専門書など)の救出依頼が、阪神大震災地元NGO救援連絡会議の文化情報部に寄せられ、すぐに救出されるということもあった。
個人宅に伺って蔵書など個人の文化遺産を救出することは、当時は想像もつかない活動であった。所有者以外にとっては不用品としか見えないものを、何らかの理由があって今まで保管されていたのだからと、とにかく救い出す、捨てられないように工夫するという作業は、被災した多くの人が配給のおにぎりに頼って生活している中では、発想することさえ困難であった。
しかし、個人所有のものや現代の出版物なども文化的な遺産ととらえ、後世に残すべく、それらの救出も保護活動の一環として位置づけたことは、後の大規模災害における文化遺産全般への対応を先取りするものであったと言えよう。