孤独・孤立問題の捉え直し
孤独・孤立問題に対して、望む/望まないといった心的態度からアプローチする手法は、苦境に立たされているにもかかわらず、他者への迷惑を考慮して、関係性から消極的に撤退してゆく人びとを、視界の外に追いやってしまう。
個人の意思に重きをおく現代社会は、良きにつけ悪しきにつけ、「自己決定」を行動原理の中心に据えてきた。孤独・孤立のありようを当事者の希望で分ける発想は、その延長線上にある。しかしながら、孤独・孤立については、望む/望まないで簡単に分けられるものではない。
本稿であげた排除・孤立層は、客観的状況だけ取り上げれば、「望まない孤立」と判断しうる。しかし、彼・彼女らの意識まで掘り下げると、孤独・孤立を「望んでいる」とは言えないまでも、「容認している」ようにも捉えられる。そこに、諦めに似た感覚を伴っていたとしても、である。こうした人びとに、行政はことのほか無力である。
仮に、客観的に「望まない孤立」状態に陥ったとしても、当事者が積極的に支援を求めれば、行政も対応は可能である。しかし、声を上げず、現状を変えようとしない人に、行政のサービスは届きにくい。「望まない孤立」と認定され、支援を得るためには、当事者が「望まない」と声を上げなければならないのである。
しかし、排除・孤立層に声を上げることを求めるのは、酷というものだ。そもそも、彼・彼女らに声を上げる意思があるのならば、排除・孤立層にとどまっていないだろう。これまでの分析で確認したように、排除・孤立層は、人一倍、他人に迷惑をかけないよう、また、厳しい環境におかれても両親に感謝と敬意を払うよう生きてきたのである。だからこそ、排除・孤立層は、人びとの意識に上がることもなく、「都市の底部に沈み込む存在」として、不可視化されてきた。