(『中央公論』2021年9月号より抜粋)
「欠乏」を生み出す資本主義
森田 今日は僕の研究ラボ「鹿谷庵」にわざわざお越しいただき、ありがとうございます。庭の掃除をしながら、お待ちしていました。
斎藤 ツイッターで、森田さんが息子さんと一緒にトマトを収穫したことなど拝見していました。その畑は裏庭にあるんですね。
森田 ええ。畑は子供たちと一緒に試行錯誤で作っています。小さな土地でも、収穫した野菜でおいしい料理ができたり、新しい虫がやってくるようになったり、日々小さな発見や喜びがあります。ここではGDPこそほとんど生み出していませんが、斎藤さんの言葉を借りれば、自然の「ラディカルな潤沢さ」を実感する毎日です。斎藤さんはこれまでも様々な著書の中で、資本主義社会では自然の潤沢な「富」が次々と「商品」に姿を変えてしまうことを指摘していますね。
斎藤 はい。私たちは資本主義が豊かさをもたらしてくれると思い込んでいますが、実際のところ、資本家が追求するのは利益であり、そのために商品の「希少性」が人工的に生み出されます。土地や物を囲い込み、あらゆるモノに希少価値をつけて利益を得ようとする結果として、豊かさどころか、絶えず欠乏を生み出している。多くの人が、そのことに気がついていません。
森田 庭ではいつも、自然の潤沢な富を拾ったりもらったりしています。学問や知識も、本当は自然の恵みと同じように、誰もがもっと自由に拾ったりもらったりできていいはずです。このラボでは子供たちに、そういう体験をしてほしいと思っています。とはいえ、斎藤さんのご著書を読み、僕自身、自分がいかに「商品」という発想に縛られてきたかを痛感しました。特に印象的だったのが、カール・マルクスが若いころ、地元紙に木材盗伐についての記事を何度も書いていたという話です。
斎藤 マルクスが1842年に『ライン新聞』主筆になったころの話ですね。当時は資本主義という新しいメカニズムが、ドイツの人々の暮らしを激変させていました。その象徴が、森で枝を拾い集める行為を「窃盗」と断じる法律ができたことです。貧しい人々が煮炊きをしたり、暖をとったりする薪の材料だった枝は、マルクスが「富」と呼ぶ、みんなの共有財産=コモンでした。それを地主が私有財産として囲い込んだ。マルクスはこの法律を何度も新聞で取り上げ、資本家が「富」を「商品」におきかえて利益を独占する資本主義システムを、痛烈に批判しました。
森田 うちの近くの疏水で、時々釣りをしているおじいさんがいます。その姿を見ると、僕はちょっと複雑な気持ちになります。ここは観光地でもあるので、こんなところで勝手に釣りをしてもいいのかなと思っちゃうんです。あらゆるものを「商品」とみなす世界で育った僕は、疏水にいる魚を勝手に自分のものにしてしまう行為に、どこか違和感を覚えてしまう。でも、おじいさんにはおそらく別の風景が見えている。それは、森で枝を拾い集めるのが当たり前だったように、川を泳ぐ魚をみんなで分かち合うことが当たり前だった時代の風景です。
斎藤 おっしゃるように、水や太陽をはじめ、地球上のあらゆる資源は、本来私たちみんなの「富」です。そうした社会の「富」が、資本主義によって「商品」化されることを、マルクスは一貫して問題視しました。例えば、きれいな水にアクセスするのは当然の権利なのに、商品化された途端、お金がある人しか買えなくなる。こういう問題は水道の民営化などでまさに現代に通じますが、ソ連が崩壊したことでマルクス主義は失敗とされ、『資本論』を読む人が激減してしまいました。
「資本主義は人間の本性に適っている」「管理や規制は良くない」という主張が支配的になり、経済のグローバル化が加速した。その結果、経済格差や気候変動といった問題が深刻化したのが、この30年です。その中で生きてきた私たちは、資本主義の限界に薄々気づきながらも、それ以外の選択肢を想像する力をすっかり失ってしまいました。
森田 斎藤さんが今してくださったように、マルクスの思想をひもときながら「商品」や「富」などの基本的な概念を明瞭に整理してもらえると、僕たちにとっても、ここから思考し、日々の振る舞いを変えていく道しるべになります。