哲学は今後どうなるのか
――「知のパラダイム転換」以降、人文系の学問は書き換えられ、古いパラダイムで書かれた本は再点検が必要になってくる――。そのような観点から橘さんが知の最前線を概観したのが『「読まなくてもいい本」の読書案内』でした。挑発的な書名ですね。
先ほども言ったように、社会科学が自然科学に浸食され、書き換えられていくことは間違いありません。
哲学の世界でヘーゲルは「意識」について多くのことを書いていますが、今の意識の研究者でヘーゲルを参照する人はいないですよね。意識の研究は脳科学の分野でやることだからです。
フッサールは意識を現象学的に還元しようとしましたが、意識は無意識にアクセスできないのだから、どれほど「還元」しても意識の深層には到達できない。その意味で、意識についての膨大な哲学的議論のほとんどは今では役に立ちません。
結局、哲学という分野は宗教と同じように、人生論や道徳論になっていくのだろうと思います。どう生きるべきかについて自然科学は教えてくれませんから、そこでの役割はあるでしょう。
ただ、ここにも進化論的な制約があって、私たちが日常的に抱くさまざまな悩みは紀元前1000年ぐらいの人たちと大差なく、ブッダや孔子、ソクラテスなどがすべて考えていたんじゃないでしょうか。
象徴的なのが、シリコンバレーでマインドフルネス(自分の身に今起きていることに意識を集中させ、感情・思考・感覚を冷静に認識し現実を受け入れること)とストア哲学が流行していることです。マインドフルネスは仏教、ストア哲学はエピクテトスやマルクス・アウレリウスなど古代ローマの思想家が源流ですが、テクノロジーの最先端にいても、人生に悩んだら2000年、3000年前に戻っていくんですね。
――結局、その時代の人たちの話で事足りてしまうのではないか、と。
人間関係がもたらす「生きづらさ」については、紀元前にすべて言い尽くされていた。あるいは、啓蒙主義の時代にカントやロック、ルソー、ベンサム、ミルなどが近代的な道徳について徹底的に論じたので、「人生とは」「正義とは」といった今の議論はその注釈ですよね。
私が大学生のときに夢中になったポストモダンの思想家たちの著作も、おそらくミシェル・フーコーを除いて、早晩「読まなくてもいい本」になっていくでしょう。フーコーは、「統治される者の幸福に配慮する権力」というまったく新しい理論的枠組みを提出し、それが今の監視社会の分析につながっているのだから、本当に慧眼でした。
それ以外のフランス現代思想は、発想として面白いものの、自然科学的な裏付けがないので、単なるレトリックの見せびらかしに堕していったというのが私の理解です。
――わざわざフランス現代思想までさかのぼって難しそうな本を読むよりも、新しいパラダイムで、自然科学の言語で書かれた本を読むほうが、より正しい知見を得られると。
ドゥルーズ/ガタリは「リゾーム」という概念で、因果論以外の何か別の力が社会を支配していると論じていて、これは鋭いと思いますが、彼らが分厚く晦渋(かいじゅう)で、何を言っているのかわからない本で書いたことは、数学者のブノワ・マンデルブロなら「それは複雑系のスモールワールドのことだよ」と一行で説明するでしょう。『千のプラトー』を完読した人には申し訳ないですが、今となっては単なる時間の無駄です。