「眠れる大学」というレッテル
1960(昭和35)年6月と70年6月という2度の日米安全保障条約の改定・延長により、日本政府は全国に点在している米軍基地を存続させ、地位協定という治外法権を米軍に与えた。日米安保が日本の大学生を刺激し、全国的な闘争に発展したのは言うまでもない。
反面、60年代半ばまでの日本大学は学生運動の存在しない学校と呼ばれ、学内は平穏だった。理由は戦後、大学の再興を指揮してきた会頭の古田重二良をはじめとする大学当局による抑えが効いていたからに違いない。既述してきたように、政財官の保守重鎮や右翼、フィクサーたちが集った「日本会」が機能してきたといってもいい。
国公立、私立を問わず、60年代、国内の多くの大学では全日本学生自治会総連合(全学連)傘下の戦闘的な学生自治会が活動してきた。だが、日大では、学生による自治会活動が許されなかった。そのせいで日大は日本一のマンモス大学に成長していながら、左翼学生から「眠れる大学」という不名誉なレッテルを貼られてきた。
巷間、学生運動における日大の転機といえば、68年1月の年明けから始まった東京国税局による理工学部教授の脱税捜査だったと伝えられる。奇しくも60年安保を前に生まれた全学連に続き、左翼学生たちは学部やセクトなどの垣根を越えて活動しようと全学共闘会議(全共闘)を結成し、その2大組織が東大と日大に置かれたのである。
もっとも、そこには前段があった。この当時の古田会頭に抑圧されていた日大の左翼学生たちは、大学当局の管理下に置かれた各学部の「学生会」で細々と活動してきたに過ぎなかった。しかしその一方で、1964年8月のトンキン湾事件を機に本格化したベトナム戦争が、学生たちの意識を変える。60年安保の4年後のことだ。
東西冷戦下のベトナムは、社会主義の北ベトナム(ベトナム民主共和国)と南ベトナム(ベトナム共和国)の南北に分断され、米国は軍事支援した南ベトナムを傀儡国家にした。そこから米国は抵抗する南ベトナム解放民族戦線のゲリラに手を焼き、本格的に進軍した。
そのベトナム戦争は泥沼化し、やがて米国は世界中から非難されるようになる。解放戦線や北ベトナム軍と和平を結んだ後、75(昭和50)年4月には北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴンを陥落させる。