怒りの矛先は古田会頭へ
この4.20事件が日大紛争における運動部の乱入の始まりといえた。そこから議長団が立ち上がり、藤原執行部に代わって翌68年に廣瀬の後輩にあたる経済学部の秋田明大率いる学生の運動組織が誕生する。廣瀬が続ける。
「結局、学生がボコボコにやられちゃった。藤原執行部はなくなり、残った連中でどうしようかって話し合いました。それで、議長団をつくり、俺と鈴木が書記になって議長を3人立てたのです。あまり目立つとやられちゃうんで、言ってみれば何とかつないでいったわけですね。議長団で選んだ委員長が秋田明大でした。で、次の全共闘につながったわけです」
のちに日大全共闘の議長となる秋田明大は広島県の崇徳高校卒業後の65(昭和40)年4月、日大経済学部に入学している。廣瀬の1年後輩にあたる鈴木はこの秋田とともに日大全共闘の執行部で活動している。廣瀬の話を引き取って、自嘲気味にこう言う。
「時系列で言うとそうなりますね。いわゆる今まであった日大の学生会執行部であれば、たぶん大学側に退いて、そのままということだったのでしょう。けれど、議長団をつくったからね。ただし、議長団は短い間のことで、何の権限もありませんでした。要するに学生会の執行部でもない単なるまとめ役。今だから言うけど、われわれ議長団は学生みなの代表として、『これが決議です』とコンコンと学生課のドアを叩く役でしかありませんでした。しかしそれでもって、徹底的に決議して全員一致まで持っていって、何項目かにまとめて学校当局に持ちこんだ。議長団がなければ、全共闘の蜂起のもなかったと思います」
前述したように日大全共闘の蜂起は、68年の年明けから開始された東京国税局の捜査が端緒となる。理工学部教授の小野竹之助が裏口入学の斡旋などで5000万円の裏金を蓄え、隠し持ってきた。国税局がその脱税の事実を見つけ出し、一連の捜査の過程で5月までに大学の巨額使途不明金をつかんだ。当時の新聞各紙を賑わせた「20億円の使途不明金」である。
そしてこれが日大生の怒りに火をつける結果となる。怒りの矛先は日大中興の祖と崇められてきた会頭の古田に向かい、東大紛争と並ぶ大学紛争に発展した。日大全共闘を率いたのが、経済学部の秋田明大だ。
秋田率いる日大全共闘では激しい闘争を繰り返し、ついに会頭の古田退陣に追い込んでいく。一方、日大紛争で相撲部の田中英壽は存在感を示し、その後の田中帝国の足場を築いたと伝えられる。相撲部が関係しているだけにそれは間違いないだろう。
ただし、紛争の記録をひっくり返しても、田中本人の姓名は見あたらない。廣瀬にしろ、鈴木にしろ、田中を知らず、あとから調べてみても、記録には残っていないのだという。
(敬称略、つづく)