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大竹文雄×笠井信輔 コロナ禍でのがん闘病から見えた社会の病理

大竹文雄(大阪大学特任教授)×笠井信輔(フリーアナウンサー)
大竹文雄氏(左)、笠井信輔氏(右)(笠井氏撮影:米田育広)
 コロナ禍の3年間とはどのような時代だったのか。がん闘病を経て仕事に復帰したフリーアナウンサーの笠井信輔さんと、コロナ対策の専門家会議に参加した経済学者の大竹文雄さんが語り合った。
(『中央公論』2023年10月号より抜粋)

コロナ禍でのがん闘病

笠井 33年勤めたテレビ局を56歳で辞め、フリーになった2ヵ月後にがんが発覚しました。

 退職前から排尿障害や腰痛など兆候はありました。その1年前に、情報番組「とくダネ!」で長年ご一緒した小倉智昭さんが膀胱がんの手術を受けていたこともあり、私もがんになったのだろうと直感し、すぐに検査を受けました。しかし、悪性リンパ腫の一種、びまん性大細胞型B細胞リンパ腫であるとわかったのは4ヵ月後。3人目の医師でようやく診断がつきました。ステージⅣ、遺伝子異常もあり、脳に転移しやすい型のため、通常の治療法が使えないとのこと。死をも覚悟しましたが、担当医の先生はこうおっしゃいました。「ステージⅣは手遅れではありません。抗がん剤が発達した今は、がん種と抗がん剤が合えば、必ず乗り越えられますから、頑張りましょう」と。結果的にそのとおりでした。

 入院は2019年12月19日。中国・武漢で新型コロナ患者が出たと初めて報道されたのが年末で、退院が20年4月30日です。6回の抗がん剤投与、4ヵ月半の入院で完全寛解。2ヵ月半の自宅療養を経て、8月に社会復帰しました。現在は3ヵ月に一度、経過観察を受けながら、通常どおりの生活をしています。

 つまり、コロナが襲来し、世の中が一変していく様子を、私はがんに苦しみながらも、ずっと病院のなかから眺めていたというわけです。


大竹 笠井さんが入院された頃、私は風疹の抗体検査の受検率向上(後述)のための行動経済学的研究を始めたところでした。2月にクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号で新型コロナの集団感染が発生すると、研究の依頼主だった厚生労働省の結核感染症課が担当部署となり、担当者との連絡も難しくなる状況でした。病気の実態が解明されてくると、人々に感染予防対策を効果的に呼びかける必要性から専門家会議のオブザーバーに任命され、3月19日以降、会議に参加するようになりました。

 4月7日に緊急事態宣言が発令され、「人との接触8割減」が呼びかけられました。笠井さんが退院されたゴールデンウィーク直前には、帰省する人を減らすためのメッセージを作りました。原案は「帰省を控えてビデオ通話を利用」でしたが、やりたいことを禁じると損失と感じて行動変容を促しにくいことが行動経済学で知られていますので、「ビデオ通話でオンライン帰省」と変えて発信しました。

 それにしても、緊急事態宣言中に病院の外に出るというのは、どんなお気持ちでしたか。有名人が次々に亡くなり、新型コロナの恐怖が世間を席捲していた時期ですよね。


笠井 出たくありませんでしたよ。通常なら退院はめでたいはずですが、誰も喜んでくれないどころか、「出てこないで」「病院に匿(かくま)ってもらいなよ」と言われる始末。

 悪性リンパ腫は血液がんなので、手術ではなく、抗がん剤治療によってがん細胞を殺してゆきます。白血球量は4000以上が通常ですが、私は抗がん剤の影響で1300というギリギリの数値での退院でした。抵抗力が低く、「がんを乗り越えたのにコロナで死ぬんじゃないか」という周囲の反応も無理はなかったと思います。ただ、必要な方に病室を譲るべきだという思いもあり、恐る恐る退院しました。

 退院後は、風呂と朝の散歩以外は部屋から出ず、家族との接触も極力断つという「セルフロックダウン」を2ヵ月間続けました。

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