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連載 大学と権力──日本大学暗黒史 第5回

森功(ノンフィクション作家)

 運動部の学生が大学本部に出入り

のちに理事長となる田中英壽は1965年4月、青森県から上京して日大経済学部に入学し、相撲部主将として全共闘と対峙して本部執行部に認められた、と伝えられる。その田中と経済学部時代に同期生だった日大全共闘の幹部がいる。森雄一だ。

「実をいうと私は静岡県三島にある教養部に入学し、そこを1年で出て66年に三崎町の経済学部に進級しました。田中はその経済学部にいたわけですけれど、具体的な接点はありませんでした。ただ、大学本部にしばしば行く機会があったんで、おおよその事情はわかりました」

森が日大紛争当時の状況について次のように説明を加える。

66年頃の話です。あの頃の日大本部は、普通の一般学生が出入りするようなところではありませんでしたが、運動部の事務所が本部に置かれ、そこに部員たちが出入りしていました。空手部や相撲部、ボクシング部、応援団といったところの学生たちの巣窟のようになっていた。それは古田重二良の方針でした。会頭の古田以下、鈴木勝理事が本部で運動部と直結するために事務所を置き、そこへ部員を呼び寄せるシステムをつくっていました。本部に出入りする運動部の連中はまさしく特別扱い。学生課の応接室に通され、お茶まで出されていました。とくに応援団の連中が我が物顔で跳梁跋扈し、大手を振って本部を歩いている姿を見かけました。妙に風格があるというか、学生には見えませんでした。彼らは本部から小遣いまでもらっているのではないか、という話でした。相撲部の田中は私と同じ青森県の出身でした。田中が相撲部時代にも大学当局側で動いていたことは記録に残っていますので、間違いありません」

会頭の古田が運動部を大学本部にかき集めた理由は、言うまでもなく、左翼学生対策であり、相撲部の田中もその一人だったのである。奇しくも日大紛争は、田中や森がいた経済学部を舞台に燃え盛った。

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