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連載 大学と権力──日本大学暗黒史 第7回

森功(ノンフィクション作家)

 内田正人元アメフト部監督の証言

それからずっとあと、田中の保健体育局時代の部下となった職員の1人に、元アメフト部監督の内田正人がいる。日大文理学部を卒業した内田は79(昭和54)年4月に日大に就職し、保健体育局に配属されて田中と出会う。田中に引き立てられて常務理事まで兼務するが、2018(平成30)年5月に起きたアメフト部タックル問題で引責辞任した。

その内田に会うことができた。タックル事件の真相については稿を改めるとして、まずは田中との邂逅から尋ねた。次のように重い口を開く。

「田中理事長体制については功罪あります。私自身、これまで口を閉ざしてきました。しかし現在の日大を見るにつけ、かかわってきた者として本当のことを話す責任があると思い直しました」

内田は文理学部の職員として日大に採用されたとの報道もあるが、初めはそうではなかったようだ。田中と内田の邂逅は最初に赴任した保健体育局時代のことだという。

「私は昭和54年に保健体育局に配属されました。そのときの直属の上司が田中先生だったのです。田中先生はかつて(保健)体育局長だった橘先生を親分と崇めていて、先生から『輪島は大相撲に行け、田中は日大に残れ』とアドバイスされたのは有名な話です。日大紛争のとき、まだ私は大学にいなかったので、詳しくはわかりません。ただ、相撲部の田中先生はあまり紛争の現場に行かなかったと聞きました。もっぱら応援団や剣道部、空手部の部員が出張っていったそうです。たとえば空手では、芸術学部剛柔流空手部というのがあって、そこが現場を取り仕切っていたらしい。やはり運動部でもトップクラスの選手はあまり紛争現場には出さなかったのかもしれませんね」

これまでさんざん黒い噂が報じられてきた割に、田中本人が日大紛争で大立ち回りしたという報道は見あたらない。それは、学生横綱になったばかりの田中が左翼学生の前に立ちはだかれば、ビッグニュースになることを大学側が恐れたからではないだろうか。そこは慎重になったようだ。内田はこうも言った。

「日大紛争現場における田中先生の活躍は知りません。ただ、先生から聞いたところでは、紛争現場に行けば大学本部側からアルバイト料が出ていたそうです。あの頃の大学の経理は無茶苦茶で、入学金やら授業料やらが本部に入ると、いったん段ボールに入れて現金を保管していたといいます。左翼学生がデモをすると、その金を運動部の学生にアルバイト料として配り、人を集めていたんだそうです。文字通りのつかみ金で、応援団の連中が中心になって受け取ってその中からピンハネしていたらしい。ときには国士館とか、他大学の学生にも配って動員していたそうです。そんな有様ですから、さすがに有名選手はそこに加わらなかったのではないでしょうか」

 運動部のアルバイト料支払いは、「バリケードの設置手当」や「宿直手当」などといった名目で大学側が支出し、それを運動部の幹部がピンハネするといった仕組みだったそうだ。その運動部の総本山が保健体育局である。日大に残り、職員になった田中はそこで頭角を現わしていったのは間違いない。また、保健体育局には暴力団との接点もあった。内田が保健体育局そのものの成り立ちについて、次のように解説してくれた。

「田中先生の心酔する橘先生は日大運動部に絶大な影響力がある一方、体育局や運動部そのものが住吉会やその系列の右翼団体などと深くつながっていました。たとえば現役時代にボクシング部で活躍した村中隆生先生は右翼団体に所属していたことはありませんが、(住吉会系小林会の)小林楠扶(くすお)会長との縁がありました。運動部の学生や体育局の先生方(幹部職員)にはそういうつながりあり、日大紛争で駆り出されたのでしょうね」

内田の言った小林は、のちに指定暴力団「住吉会」に改められる住吉連合会で本部長を務めた斯界の大物ヤクザである。小林はボクシングや芸能興行の仕切り役であり、政界の黒幕として勇名を轟かせた小佐野賢治や児玉誉士夫などとも昵懇だった。その小佐野や児玉は日大会頭の古田が結成した「日本会」のメンバーに名を連ね、小林は日本最大の右翼団体「日本青年社」を創設した。まさに表と裏で日本を動かしてきた大立者たちが、日大という私学組織の地下水脈で結ばれていたように感じる。

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