戦後に「消えた」もの
岩村 先生の世代は、戦後に教科書墨塗りをさせられていますよね。終戦の日を境にすべてが一変した、そんなご経験も関係していますか。
養老 そういうことがあったから、一切感情で動くまいというふうになってきたのはあるでしょうね。なにしろ一億玉砕、本土決戦が一夜にして、マッカーサー万歳、平和憲法になってしまったんだから。
岩村 人間の一種の自己防衛みたいなものでしょうか。墨塗りをさせられたとき先生はどんな思いでしたか。
養老 正直、具体的なことはよく覚えていません。僕は小学2年生でしたからね。小学4年生ぐらいから社会性が生まれてきますが、まだ小さかったから、本当に素直に受け入れたんだと思いますよ。
岩村 教科書のどこを消し、どこを残したかというようなことより、昨日まで正しいと言われたことさえ突然変わるんだ、という衝撃のほうが大きかったのではないでしょうか。
養老 大きな感情の問題というのは時間が経つと消えてしまう。たとえば太平洋戦争について、なんであんな馬鹿なことをしたのかとよく言うでしょう。そういう人たちはたいてい団塊以降の世代で、戦前戦中の雰囲気を知らない。雰囲気というか感情を知らないんですね。理性だけで考えたら「馬鹿なこと」になる。
あのころ欧米人に対して持っていた感情の中でいちばん大きいのは「贅沢」です。欧米諸国の贅沢がいわば犯罪的に見えていた。今でも僕はそうですよ。蛇口からお湯が出るなんてとんでもないと思うもの(笑)。でもその感情を完全に消してしまったために、そういったことがわからなくなった。今は格差と呼ぶけれど、当時の欧米人と日本人の生活の格差は相当なものでしょう。
岩村 その時代の人ならではの感覚や感情って史実から消えていくのですね。当時の日本人は、贅沢な欧米人の生活に憧れて、ああなりたいと目指してきたのかと思っていました。
養老 強い敵対心を持っていたんですね。でも、そういう感情があったという事実が消えてしまったら、戦争の動機も何もわからなくなる。今ガザやウクライナで戦争が起きていますが、あれもそこにいる人たちの感情がわからないと何も言えない。
今の日本で気になっているのは闇バイト。あれは嫌な話ですね。何か日本そのものみたいな気がするんですよ。
岩村 といいますのは。
養老 戦前戦中から戦後にかけてなくなったものが日常的な暴力です。暴力の存在をはなから消してきた。でも日本の歴史をさかのぼると、頼朝が鎌倉幕府を開いてから明治維新で江戸幕府がつぶれるまでずっと武家の支配、つまり暴力支配で来たわけです。そのあたりのことをはっきりと書いたのが山本七平さんです。捕虜収容所に入れられたときにどうするか、欧米人と日本人とではまったく違うと。欧米人は合議をして役割分担を行う。日本だと牢名主ができて、その下に2、3人下っ端がいて、牢名主のいうことを聞いて暴力支配を始める。今の闇バイトとまったく同じ構図でしょう。昔はその暴力を、庶民というかごく普通の人が倫理観で抑えていた。それがなくなっている。
岩村 日本人独特の暴力支配の構図もその倫理観があって抑制されていたのに、暴力支配だけはまた出てくるんですね。
養老 学園紛争のとき、共産党系の学生が集まって、全共闘の暴力反対という集会を東大の御殿下グラウンドでやったんだけど、みんな手に竹槍を持っていた。いったいどういうことかと思いましたが、ああやってたまに先祖返りするんですね。
結局、さっきの教科書墨塗りの話ではないですが、本気でやっていないんです。塗るほうも塗らせるほうも、自分の本音でやったわけではない。戦後の民法改正もそうです。本気で変えたわけではない。その証拠に政治家にしても家制度がそのまま残っていて、2世、3世が多いでしょう。天皇制もそのまま。なんで変えたのだろうと思いますよ。
(『中央公論』1月号ではこの後も、日本の食卓や教育観の変化、天災で変わる日本について詳しく論じている。)
養老孟司 著/鵜飼哲夫 編
「ああすれば、こうなる」と、すぐに答えが出ることなんて、面白いはずないでしょう――。頭だけで考えたことの安易な正当化を〈たかだか千五百グラムの脳味噌が、そうだと思っているだけ〉と痛快に斬り、子どもと虫の将来を本気で心配する。今の読者に改めて伝えたい、「養老節」が炸裂する22篇を厳選した、ベストエッセイ集。巻末に語り下ろし「二十年後のQ&A」を収録した、好評『なるようになる。』の姉妹編。
岩村暢子 著
好きなものを好きなときに好きなところで食べる。「個人の自由」を突き詰めたとき、家族はどうなっていくのか――。類を見ない綿密な食卓調査が明らかにする、超「個」社会の現実。
1937年神奈川県生まれ。東京大学医学部教授などを歴任。89年『からだの見方』でサントリー学芸賞、2003年『バカの壁』で毎日出版文化賞特別賞を受賞。近著に『わからないので面白い』。
◆岩村暢子〔いわむらのぶこ〕
1953年北海道生まれ。調査会社、総研、大手広告会社等を経て現職。食と現代家族の調査・研究を続ける。2011年『家族の勝手でしょ!』で辻静雄食文化賞を受賞。近著に『ぼっちな食卓』。