2019年12月号【編集長から】
<国語に文学は要らない?>
三島由紀夫は東大卒業後、大蔵省に9ヵ月ほど勤務しました。「蔵相就任の想ひ出――ボクは大蔵大臣」という文章に大臣の演説原稿を書いた話を記しています。「淡谷のり子さんや笠置シヅ子さんのたのしいアトラクションの前に、私如きハゲ頭のオヤヂがまかり出まして、御挨拶を申上げるのは野暮の骨頂でありますが......」。〈完膚なきまでに添削が施され〉たそうです。実用的な国語を学んでいなかったのかもしれません。
今月号の特集は「国語の大論争」。聞きなれない「論理国語」という科目が高校のカリキュラムに導入されます。大学入試の国語も変わります。より実用的な国語に、という改革ですが、従来の文学作品を学ぶ機会は減りそうです。
三島のように優秀な人や文学好きには、国語教育のあり方が変わってもさほど違いはないでしょう。しかし、そうではない多くの人にとって、学校は文学に触れる貴重な場です。今回の改革は大学に進学しない約半数のことを考慮していない、という紅野謙介さんの指摘が気になります。
インターネットでは、自分の好みに応じた情報だけがすすめられがちです。読書離れも進んでいます。強制的に読まされる教科書に何を載せるか、大人の責任は重大です。
特に国語が好きだったわけではなくても、授業で読んだ作品の場面やせりふ、先生の言葉がふと脳裏をよぎるという人は少なくないでしょう。たとえば契約書の読み方を学んで、将来、懐かしく思い出すことがあるでしょうか。目の前の「実用」ばかりを求める。改革というには、少し志が低い気がします。
編集長 穴井雄治