2009年3月号【編集後記】

★まだ、日本中が敗戦の衝撃の中にあった一九四五年八月末、石橋湛山は自身が社長を務める『東洋経済新報』に「更生日本の針路―前途は実に洋々たり」という論説を発表します。そのときの日本の状態は史上最悪の破滅と荒廃の中、「洋々」など、ほど遠いものでしたが、別に湛山はカラ元気や逆バリでこう主張したわけではありません。二〇年代から彼は、大陸植民地放棄、国際協調と自由貿易の享受、加工貿易立国を訴えており、敗戦は、旧弊を一掃し、もはや他に選択肢のないかたちで政策転換を行う契機となると考えたからです。

★さて今の日本、第二の敗戦とまで言われたバブル崩壊、九〇年代の低迷に続き、今度は世界経済そのものが破滅。これまでに作り出した希望喪失層の問題に目処が立たないうちに、もはや日本自体が希望を失いつつあります。しかし一向に、政策も体制も他国のような転換を見せようとしません。日本の立地条件が変わったわけではないのだから、できることをひたすらやる以外に方策はないはずなのに、未だ弥縫策に終始しています。★湛山はその後、政界に転じ、曲折の後、内閣総理大臣の座をつかみますが病のためわずか二ヵ月で辞任。皮肉なことにその直後から高度経済成長が始まります。政治家としての評価は今ひとつでしたが、でもいまだに多くの信者が存在します。過去をきっぱりあきらめてゼロからやり直せるか否か。政治の価値とは政権の長さにあるわけではないようです。(間宮)