2010年10月号【編集後記】

★「義を為すは毀を避け誉に就くに非ず」(墨子)。最近、なぜか「正義」が大ブームです。某国の超エリート大学で行われている正義を考える講義の風景をテレビ放送したところ、それを見た我が国民までが白熱したとのこと。この不安定な世に倫理を求める気持ちは分からないでもないです。しかし欧米人が正義を口にするとなにやら胡散臭く感じるのは私だけでしょうか。正義の戦争、正義の法廷......。どれも現実にろくでもない結果に終わった出来事を思い出させます。

★なぜピンと来ないか考えてみました。そもそも近代以前、古典の中で我々が親しんできた「義」とは、外から「正」しいか否かという評価を受ける性質のものではありません。孟子は義を「羞悪の心」と言いましたが、あくまでも内発的な行動原理であり、極めて個人的な徳目です。世間一般の基準による正しさとは相容れない、むしろひねくれ者の矜持です。それを将来のパワーエリートたちがこぞって社会や最大多数の正しさの中にはめ込もうとする姿は何やら背筋が寒くなります。★「幸福なるかな、義のために責められたる者。天國はその人のものなり。我がために、人汝らを罵り、また責め、詐りて各様の悪しきことを言うときは、汝ら幸福なり。喜び喜べ、天にて汝らの報いは大なり。汝らより前にありし預言者たちも、斯く責めたりき」。人が義人として生きることは、現代では流行らないのかもしれません。(間宮)