阪田三吉は当時、対局後に端歩の意味を新聞記者に聞かれてこう答えています。「みんなは将棋盤の前に座って将棋を指しているやないか。わいはな、通天閣の上からずっと全部見通して指しとるのや。わいの将棋が分かるのはずっと後のことや」と。
梅田 米長先生は今度の対局でそういう初手を指そうと考えているということですか。
米長 いや。それはいきなり斬り合いになるので難しい。
梅田 がっぷり四つを組むところに持っていきたいわけですよね。
米長 まあ、最新型の将棋は避けるという選択肢は有力でしょうね。
梅田 でもコンピュータを相手に、こちらの都合よく局面を誘導することは可能なのでしょうか。
米長 可能です。可能ではあるんですけど、「口は災いの元」と言うでしょう。私は二〇年前に、「横歩も取れないような男に負けたらご先祖さまに申し訳ない」という発言をしてしまったことがある。だから、いくらがっぷり四つに組みたいと思っても、この手を指すと激しい将棋になるから飛車引いて落ち着けて......というような将棋は指せない。そんなことをすれば、「お前は本当に米長なのか?」ということになる。
ですから、初手についてはまだ考え中です。私が今知りたいのは、阪田三吉はいったいどういう気持ちで端歩を突いたのか。これなんですね。
泥沼流を捨てる!?
梅田 なるほど。さて次に、これは核心部分ですけれど、「泥沼流」と呼ばれてファンを魅了してきた米長将棋とは、序盤よりも中・終盤を重視する将棋ですよね。序盤では、若干形勢が不利になっても、駒の勢いや「将棋とはこういうものだ」という意志を大事にする。そして、中・終盤では、剛力で相手をねじ伏せていくものだったと思うんです。一方のコンピュータも、実に終盤の「詰むや詰まざるや」の場面ではものすごく強い。米長先生は、今のコンピュータも、中・終盤の一番の勝負どころでは、人間と同様、最善手を指しきれないという認識ですか。
米長 私の指した感じでは、「詰むか詰まないか」という最終盤では、もう間違えることはないですね。一〇〇%詰ませてくる。ただ、そのちょっと前では結構間違えます。こちらが形勢不利になっていても、盛り返すということは往々にしてあります。
ただ、一月十四日の対局では、駒を並べたときから勝負が終わるまで、一度でも自分のほうが形勢不利になれば、そのまま負かされるものだと思って指すつもりです。
梅田 今回は、「泥沼流」を捨てるということですか。
米長 捨てるというわけではありません。私は、将棋も人生そのものも、許容範囲をどこまで置いておくかを常に考えて動くようにしているんですね。つまり、「いつも一〇〇点の手を指さなくてはならない」と考えるのではなくて、「このぐらいで大丈夫」ということを重視するわけです。
ですから、形勢が少し不利になったとしても、この形勢の差がそのまま勝敗に直結することにはならないのなら、あまり気にしない。でも「取り返しがつかない不利にはしない」ということに関しては、非常に用心深くする。いいかげんでいて、なおかつ用心深い。それが私の将棋なんですね。
ですから、相手の棋力によって、許容範囲が決まってくる。この人相手に不利になったら駄目だなと思えば、慎重になるし、この人が相手ならこの程度でいいでしょうとなれば、いいかげんになる。それで、今回、対局する相手は、「このくらいならいいでしょう」という許容範囲がほとんどないと私が判断しているということです。
それと、私自身の将棋に相手を間違えさせる力がなくなっていると思うんです。羽生善治を相手にしていると優勢だったはずの対局者が勝手に崩れていく様を指してよく「羽生マジック」などといいますが、あれは手品をかけているわけではなくて、相手が間違いやすいように指しているわけです。それも将棋の強さです。
梅田 『逆転のテクニック』という米長先生の名著に、こんなことが書かれています。
「相手の心理を読むことが、苦しい将棋を逆転さすうえでの重要な条件である。(略)どんなに複雑でむずかしい局面になっても、相手が何を考え、局面をどう感じているかということは、誰よりも敏感だと自分は思っている。相手が何を考えて(読んで)いるかということは、プロなら誰でも読めるが、それだけでは苦しい将棋を逆転できない。相手の心理を読み、相手の一番イヤがるような指し手を選ばなくてはいけない。相手が勝てそうだと思った時、ブルブルふるえているのか、楽観しているのか、アセっているのか、あるいは泰然自若としているのか、まずその心理状態を読み、それから、どういう指し方を選ぶのが、一番逆転の可能性が多いかを考える」
しかし、コンピュータが相手ではこうした逆転術も通用しないように思います。