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「知らないと恥ずかしい」を理由に教養を育てるのは無意味だ

議論から新しいことが始まる
隠岐さや香(名古屋大学教授)
「教養を身に付けるのが大事」と当然のように言われる。しかし教養とは「知らないと恥ずかしい」といった動機で身に付けるものではなく、あくまで世界のさまざまなものに触れ、その上で他者とどう対話するか、という姿勢が前提だと科学史家で名古屋大学教授の隠岐さや香氏は語る。(『中央公論』2021年8月号より抜粋)

「教養」と「自己啓発」との違い

「教養」と「自己啓発」の違いは何か。私は「自己啓発」は個人主義的な問題であり、個人の能力を高める意味合いが強いと理解している。

 それに対して「教養」は、基本的に個人よりも他者とどう関わるかが重要だと考える。教養は、世界のさまざまなものに触れ、単純に驚くことから始まる。予想外のものに触れて愕然とする、素敵だなと感じながら世界を知った上で、他者とどう対話するか、という視点が教養には必要である。哲学に知を愛する、根源に戻れというような教養観があるように、驚きを知り、哲学するといったところに戻っていくことが教養にはあると思うのだ。

 教養において、特に私が対話を強調するのは、二十一世紀は他者がかつてないほど多様になっているからだ。障がい者、ジェンダー、セクシャル・マイノリティといった、従来の大学が十分に想定してこなかった方々の参加を含めて、いろいろな人たちを想定した上での対話が重要になっているのである。そうした多様な方々との対話を通して共同体を作るという面が教養には強くあると思う。教養の原点にあるのは、知の共同体という発想だろう。

 そもそも中世の大学は、教会の外で、アリストテレスなど古代の文献を読み合った組合組織から始まっている。つまり、共通の何かを論じ合うことが大学の原点である。教養概念の原点であるリベラルアーツも、中世の大学に由来する。その点から言っても、自己啓発と教養には、個人の問題なのか、知の共同体かという前提の違いがあると思う。

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