「知らないと恥ずかしい」を理由に教養を育てるのは無意味だ

議論から新しいことが始まる
隠岐さや香(名古屋大学教授)

教養は役に立つのか

 教養は「実利的ではない」「役に立たない」と言われることがあるが、それは、短期的に見て期待されるようなことをやってくれない、お金になるような実利ではない、ということの言い換えに過ぎないと思う。

 しかし、例えば、パンデミックのようなことが起き、経済や社会のあり方を根本的に変えなければいけなくなるときには、実利的な知識だけではどうにもならない問題や課題が出てくる。

 その時には、さまざまな分野のことを知っている博識さや、それぞれの分野の知識を結びつける形で、対話スキルを動員して新しい意見を出す能力が求められる。つまり、目の前の課題に対して、こうすれば利益が出るといった、わかりやすい前提が崩れたときこそ、教養や人文知は必要になるのだろう。

 私は以前、あるビジネスマンから、仕事で外国の木材を扱ったときに、伐採などの環境問題を踏まえてデータを取り、科学的に環境を破壊しないやり方をしているつもりだったが、地元の環境団体とぶつかって、結局、その事業から撤退せざるを得なくなったという話を聞いたことがある。彼はその時に、教養の必要性を感じたという。知識をつなげて思考に落とし込んで決断する自信を持つための教養、後悔しないための知的な支えとしての教養の必要性を感じたというのだ。個人の心情や宗教や信念など、学問と代えがたいものがある一方で、ある個人が知性を総動員して最善の決断をするための基盤としての教養もあるのではないだろうか。

 私の学生時代のことを言えば、ある教授から授業で聞いた節分の話を思い出す。

 春になりいろいろな花が咲く時期に、節分は行われる。美しい花が咲く時期には、同時に忌まわしいものもたくさん目覚めてくるので、そうしたものを打ち払うために豆を撒いて鬼退治をするという話をしたのである。地域によっては音楽をかき鳴らしたりして魔物を退散させようとするのだという。

 その話が印象的だったのは、節分の豆撒きの背景に、豊かなイメージやつながりがあったことが理解できたからだ。節分がその季節に行われる意味や鬼の意味の重層性を感じたことで、豊かさを実感したことを今でも覚えている。このように、見えていないつながりを見せてくれるのも教養であり、教養が知識を深いものにしてくれるのだと思う。

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