「知らないと恥ずかしい」を理由に教養を育てるのは無意味だ

議論から新しいことが始まる
隠岐さや香(名古屋大学教授)

議論や交流から始める教養のあり方

 現在求められている教養と、九〇年代以前にあった教養のあり方が違うかといえば、必ずしもそうではない。混乱はあるが、教養そのものはそれほど大きく変わっているわけではない、と私は考える。

 ただし、かつてのような一つの大きな物語が完全に解体し、複数の物語が錯綜している現代において、「このくらい知らないと恥ずかしい」という言い方で教養を育てることは、実効性のある方法だとは思えない。

 例えば、現代の学生が頻繁に使うSNSは、バラバラの小集団に分かれていて、それぞれの集団の中において「これを知らなければ恥ずかしい」ことはあるに違いない。そうした集団を渡り歩く人もいれば、一つの集団の中で凝り固まって、ほかは見ない人もいる。その危うさが見えてしまうのも、SNSの空間である。

 また、大学の先生に言われるまでもなく、それぞれの学生がそれぞれの問題意識を持っているのが今の時代だと思う。「このままではいけない」との思いから自主的に動き始めている学生も少なくない。

 先日も二人の学生がやって来て、「学生として今何をやればいいのか真剣に考えている」と相談された。私は「小集団であっても、それぞれの集団と集団が接するときに新しいことが起こるのだから、意識的に一緒に議論していく場を作ることを始めることが有効なのではないか。SNSでもいいので、他人と真面目なことについて話す習慣を持つようにしてはどうか」とアドバイスした。

 まずは、周りの人と議論してみること。話をしてみれば、その人が知っていることや背景とつながることができる。そこから新しい流れが生まれるし、議論している場にいろいろな人が入ってくることで、過去の教養を持っていた人たちとつながることも期待できるだろう。

 自分で調べる経験をし、成功体験を積むことが教養教育の一種になるのではないか。大学時代に自分で調べて意見を言う一連の手順を積んでおくことが、社会に出てからも教養を積んでいくベースになると思うからだ。

 これからの教養について私が重視するのは、やはりリベラルアーツの原点である議論や交流である。大学が安全に他者の意見と触れ合える場、ポジティブな経験をする場であってほしいし、そうした動きがもっと活発になってほしいと考えている。

構成:戸矢晃一

中央公論 2021年8月号
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隠岐さや香(名古屋大学教授)
〔おきさやか〕
1975年東京都生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程退学。博士(学術)。広島大学大学院総合科学研究科准教授を経て現職。専門は科学史。『科学アカデミーと「有用な科学」─フォントネルの夢からコンドルセのユートピアへ』(サントリー学芸賞他受賞)、『文系と理系はなぜ分かれたのか』など著書多数。
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