ウルトラマンと怪獣の身体
『シン・ウルトラマン』に登場するウルトラマンには、カラータイマーはもとより、スーツ着脱のためのファスナーを隠す背びれも、スーツアクターの視界を確保するための覗き穴もない。ウルトラマンをデザインした彫刻家・成田亨(とおる)の理想を実現することが目指されたからである。その姿を初めて目にした浅見弘子(長澤まさみ)は、「あれがウルトラマン......きれい」と思わず口にするが、その言葉は私たち観客の声を代弁するものでもあるだろう。
この美しいウルトラマンの身体は、着ぐるみの物理的な制約から自由になれるCGでなければ実現できなかった。そしてそれは、頭部がドリル状になっているガボラや半身が透けているザラブ、さらには「蒲田(かまた)くん」の愛称で親しまれた『シン・ゴジラ』のゴジラ第二形態にも当てはまる。旧作では不可能だったこのようなビジュアルイメージを提示することで、本作は『ウルトラマン』を初めて見た観客が感じたであろうセンス・オブ・ワンダーを現代に再現した。
しかし、こうした斬新なビジュアルイメージが提示されている一方で、本作にはミニチュアで撮影したかのような映像もしばしば登場する。その典型例は、ウルトラマンの飛翔する姿である。その身体は「吊り人形」的で、飛翔する間、ウルトラマンの姿勢が変わることはない。CGを使ったのだから、今時のハリウッド映画のように空中を縦横無尽に飛び回るアクロバティックな姿を描くこともできたはずなのに、本作では、そのような描写が一貫して避けられているのだ。こうした表現は、『シン・ゴジラ』の着ぐるみを模した皮膚感や、咆哮するシーンのギニョール(パペット)っぽさにも共通する。ハリウッド版のゴジラと同じくCGで描かれたはずなのに、筋肉の動きが見える生物的なアメリカ産のゴジラとは、まったく異なるアプローチが採用されているのだ。
CGで描いているにもかかわらず、あえてミニチュア特撮で制作したかのような表現を取り入れる。『シン・ウルトラマン』や『シン・ゴジラ』に見られるこうした描写は、旧作への単なるオマージュではない。すでにいくつかのウェブ記事でも指摘されているとおり(たとえば杉本穂高「庵野秀明が突きつける"現実〟とは何か」「Real Sound」22年5月29日)、こうした表現には、現実を写した映像と空想のイメージを融合させられるのが特撮の特徴である、という庵野の考えが反映されている。『シン・ゴジラ』のキャッチコピーは「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)。」であったが、二作品に見られるCGを使ったミニチュア的な表現は、現実感のある作品に時折紛れ込ませられた「虚構」なのである。
このように理解すると、『シン・ウルトラマン』で用いられている演出が、CGを精緻に作り込むことで映像のリアリティを追求するハリウッド映画の発想と大きく異なることは、誰の目にも明らかだろう。特撮をやめてCGを使うという判断は、それだけでは「リアル」な映像を追求することを意味しないのである。
むしろ、こうした演出は、観客に心理的な効果を与えるために、現実に忠実な描写よりも誇張された(=「虚構」の)表現を好んだ円谷英二の演出観に近い。この点において、『シン・ウルトラマン』と『シン・ゴジラ』は、たしかに「特撮」を継承している(もっとも、円谷と庵野の目指す「虚構」が同じではないことには注意しなければならない)。したがって、二作品におけるCGの使用は、ミニチュア特撮からの決別というよりもむしろ、特撮とCGの対立を乗り越え、特撮の演出を昇華させようとする試みであったといえよう。