ドキュメンタリー映画の撮影現場で、監督がカメラマンに指示をほぼ出さない理由とは?師弟関係の2人が語り合う撮影のポイント
映画は「世界」をつくるもの
辻 いまの話で満若監督にちょっと質問したくなったんですけど。ドキュメンタリー映画では、自身でカメラも回す監督がいます。満若くんは本職がカメラマンなのに、なぜ自分でカメラを回すという判断をしなかったのか?
満若 それはよく聞かれることなんですが、正直ぼく自身はものすごく考えて決断するタイプではなくて。直感で決断したあとから理屈付けするということが多いんですね。それで確かに、自分で撮影もするという方法もありえたと思うんですが、それをしなかったのは、一つには大島新さん(『香川1区』『なぜ君は総理大臣になれないのか』などを監督・製作)がプロデューサーになって、お金を出してもらえることになったということはあります。カメラマンを頼むとなるとギャラ、機材費、交通費、宿泊費とかさんでしまう。そうした心配がなくなった。
ただ、それでも自分で撮るという方法もあったんですが、もう一つの理由は「部落問題」という大きなテーマに挑むにあたり、果たして自分ひとりの知性、感性だけで取り組めることなのか。ひとりではこの映画は撮り切れないだろう。「部落問題」を自分語りとして利用してしまうのではないかという懸念がありました。
カメラマンというもう一人のスタッフを加えることで、共同作業ですから摩擦や齟齬もあるにしても、作品に対する広がり、深まりが生まれてくると思ったんですね。そういった意味で、自分でカメラを回すという意識は初めからなかったんですね。
辻 映画は「世界」をつくるものなので、つくり手の側が単数だとプライベートな目線の世界になりがちですが、この映画には多様な人びとが出てきて多様な社会を描いている。つくり手の側でも、満若監督が選んだ方法論、ある種の共同性、複数の視点で見つめていくというのは映画のスケールを深くするのによかったということですよね。て、なんでぼくが解説しているんだろう(笑)。
満若 今回の映画に関していうと、描きたかったのは「部落差別」を温存している社会、曖昧模糊としたものを浮かび上がらせるというコンセプトがありました。その際、撮るこちらも「社会」の中にすでに含まれている。そういうことを考え、これはスタッフで取り組もうというのがありました。