ドキュメンタリー映画の撮影現場で、監督がカメラマンに指示をほぼ出さない理由とは?師弟関係の2人が語り合う撮影のポイント
監督も登場人物の一人になっていった
辻 ああ、そうそう。この映画の中で一か所、満若監督が自身でカメラを構えて撮っているシーンがあるんですよね。ご覧になられているとわかると思いますが、「鳥取ループ」の宮部さんが出てくるシーンです。あそこは、何れにしても満若くんが一人で行くのがよかったのかもしれない。満若くん個人の、彼に対する戸惑いとか、自身に対する問い返しなどいろんな複雑な感情が、あのシーンには含まれていて。非常にプライベート感がありつつ、それが映画の一つのピースとしてはめこまれていて。映画としての広がりを増していったというか、監督も登場人物の一人になっていった。そういう意味で、監督が自分でカメラを持つということの強みと弱みがあのシーンには出ていたと思います。
満若 そうですね。あのシーンで描かれているのは、じつは彼ではなくて、撮影者の「私」でもあるんですね。「私」が彼と接して、うろたえている。そこが明確に映し出されている。「部落探訪」といってその地域に行って撮影する彼に同行し、そこでカメラを向ける。そのとき感じた「私」のうしろめたさもあの映像には映っています。それは撮影素材をあらためて見なおしたときに感じたことでした。
【取材後記:20席と小さな劇場は連日満席で、盲導犬を伴ったお客さんが珍しくない。この日も質疑応答に入り、最前列の席から「音声ガイドを聞きながら観ていた」というひとから、こんな質問があった。
さきほど対談の中でも出てきた「部落探訪」の動画配信を行う男性から「この景色を見てどう思う?」と問われた監督が映画の中で「かっこいいですね」と答えているが、自分はその景色を想像するしかないので、その場の様子を教えてほしい。おだやかな問いかけだった。
満若監督の答えはこうだった。
「宮部さんが見ていた先にあった景色は、小さな住宅が密集した香港の九龍城をおもわすもので。あのときは突然言われ、じつは『なんて言ったらいいんだろう?』とうろたえたんですね。何も言わないというのも(彼につきそい取材をする現場の)コミュニケーションとしてよくないし。それで九龍の建物みたいで『かっこいいんじゃないですか』と投げやりな感じで返したんです。けれども彼はそれをポジティブにとらえて『そうですよねえ』と笑顔で受け止められて......。
それで、あのシーンは編集でもかなり悩んだところなんです。あそこのぼくの声を残したほうがいいのかどうか、編集マンと議論になりました。彼が行っていることに加担しているようにとられるのではないかということを編集マンは危惧したのです。ただ、ぼくとしては言ったことは事実なのと、若干投げやり気味な声の感じから賛同しているわけではないことは伝わるだろう。そう考えて残すことにしたんですね」
これまで何度か満若監督が質問にこたえる場面に立ち会い、「部落探訪」の取材に関して詰問される場面にも遭遇したが、とても印象に残るやりとりだったので記載しておきます。】
満若勇咲
日本にいまだ残る「部落差別」を丸ごと見つめ、かつてないドキュメンタリー映画として多くの観客を集めた『私のはなし 部落のはなし』監督による初エッセイ。大阪芸術大学での原一男監督の講義から学んだこと、若松孝二監督の撮影現場での体験、屠場(とじょう)とそこで働く人々を写した『にくのひと』(2007年)が各地で上映され好評を博すも、劇場公開を断念せざるをえなかった経験、そこから十数年を経て、今作公開に至るまでの歩みを綴る。 プロデューサーの大島新氏、配給会社「東風」の木下繁貴氏との鼎談、角岡伸彦氏の解説を付す。
●満若勇咲(みつわか・ゆうさく)
監督。1986年京都府生まれ。大阪芸術大学で、映画監督の原一男が指導する記録映像コースでドキュメンタリー制作を学ぶ。在学中に食肉センターで働く人たちを映した『にくのひと』を制作、劇場公開が決まるも封印。著書に映画の制作背景を綴った『「私のはなし 部落のはなし」の話』(中央公論新社)。『ドキュメンタリー批評雑誌『f/22』の編集長を務める。
●辻智彦(つじ・ともひこ)
撮影。1970年和歌山県生まれ。株式会社ハイクロスシネマトグラフティ代表(満若監督も設立時に参加している)。「ザ・ノンフィクション」「世界の車窓から」「ETV特集」などのテレビドキュメンタリーの撮影。『実録・連合赤軍 あさま山荘への道』『キャタピラー』など多くの若松孝二監督作品の撮影を担当。著書に『ドキュメンタリー撮影問答 対話から見えてくる映像制作の深層』(玄光社)。