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今井むつみ×秋田喜美×千葉雅也 「言語の本質」の謎に迫る

今井むつみ(慶應義塾大学教授)×秋田喜美(名古屋大学大学院准教授)×千葉雅也(立命館大学大学院教授)
今井むつみ氏(左)、秋田喜美氏(中央)、千葉雅也氏(右 撮影:森 清/講談社)
 知らずしらずのうちに身に付ける言語だが、私たちはどのような言葉をどういう順番で覚えるのか。オノマトペのように音と意味のつながりが感覚的に腑に落ちる言葉と、無関係に思える言葉が存在するのはなぜか。発達心理学、言語学、哲学、それぞれの立場から専門家三人が語り合った。話題は議論の前提になっている本質主義という考え方にまで発展した。(この鼎談は代官山 蔦屋書店主催、中央公論新社共催・協力により、9月22日に代官山 蔦屋書店で行われたものです)
(『中央公論』2023年12月号より抜粋)

言葉の原初に身体性がある

千葉 『言語の本質』は刊行後すぐに読み、オノマトペから言語の真相に生き生きと迫る様子が面白いとSNSで紹介したのがきっかけで、今回、お声がけいただきました。今日は哲学の観点から、本書について両先生とお話しできればと思っています。まずは、お二方が本書を執筆された経緯を伺えますか。


今井 「近代言語学の父」とも言われる言語学者ソシュールが唱えた記号学は、認知科学分野でも長年揺るぎない命題でした。記号学は、言語記号の音声と意味の結びつきは必然的なものではなく、社会慣習的な約束事であるという「言語の恣意性」を含みます。例えば、リンゴという概念とringoという音には慣習性以外の結びつきがないとされてきました。けれど、2000年代以降、とくに脳科学の分野でこの大原則に挑戦する人が出てきました。

 私は幼児の言語習得を調べるために保育園によく行くのですが、そのたびに保育士さんは上手にオノマトペを使うなあと感心していたんです。例えば散歩から帰ってきたとき、「ブクブク、ペッじゃないよ、ガラガラ、ペッしなさい」とオノマトペを使って伝えると、「うがい」を知らない1、2歳児もちゃんとわかる。「片付けなさい」がわからない子にも、「これをその箱にポイして」とオノマトペで言えば伝わる。そうした経験から、身体が感じる音と意味の間の結びつきは言語習得によい影響を与えているのだろうという直観があり、秋田先生ともよく議論していましたね。


秋田 今井先生は認知科学と心理学の専門家として言語も研究しておられ、同じ学会に所属していたご縁で仕事をご一緒するようになりました。

 おっしゃるように、言語学においてソシュールの影響は甚大で、言語は恣意的なものだと長らく言われてきました。だから私が研究するオノマトペは、今でも非常に周辺的存在とされています。


千葉 2000年代以降、言語研究の分野で身体性に力点が置かれ始めたというお話は、新鮮です。哲学・思想や文化・社会理論を研究する文系の理論屋にとって、言語をめぐる専門的議論は少し遠い存在なんです。言語学から派生したはずの文化理論は、ある時期から完全に言語学と乖離してしまったので。

 とはいえ、ソシュール的な「言語の恣意性」は20世紀の文化理論全体に大きな影響を及ぼし、「リンゴ」を指す言葉が文化によって「apple(英語)」「pomme(フランス語)」と異なるのは、人間の文化的営みには本質的必然性がなく、土地や環境によって変わるものだという、より広い議論にもつながっていった。

 言葉の成り立ちの根っこに、身体運動と結びついたプリミティブな必然性があるという話は、直観的にはわかるのですが、その見方を採用するならば、ソシュール以降の文化・社会理論のあり方を考え直す必要があるかもしれない。オノマトペ的な身体性の上に記号の恣意性が乗っかるという言語の二重構造を描いた本書の議論は、ソシュールの大原則を乗りこえるもので、僕のような理論家はどう引き受け直せばいいのだろう、と思いながら読みました。

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