今井むつみ×秋田喜美×千葉雅也 「言語の本質」の謎に迫る
「言語の恣意性」という呪縛
今井 おっしゃるように言語は二重構造ではあるものの、両者は連続しています。オノマトペというと「誰にでもわかるもの」と直観的に思いますが、実は多言語で比較すると、わかるようでいてわからないんです。実験で「やわらかい」「かたい」といった対立した概念を表す二つの未知の外国語を並べ、相手にどちらが「やわらかい」という意味かと尋ねると、かなり高確率で正解できる一方で、一つの外国語だけを提示して意味を尋ねても、まったくわからない。
つまり、すべての言葉に音象徴性があるとは言えないけれど、多言語にわたって大規模に見渡すと、統計的に身体性の相関があるのは確かである、ということです。
千葉 僕も、身体性があるとは思っていたんです。ドイツ語やフランス語を学ぶ中で、なんとなく「わかる」言葉というのはあり、共通した基盤の存在を感じてはいた。でも恣意性を叩き込まれてきた僕らとしては、それを口にすることは憚られる。そんな感じがあったんです。
本書を読んで、言語学領域ではどうやらその相関が統計的には証明されているらしいと知って、ほっとしました。語学学習においてそうした直観に頼ってもいいんだ、と許しを得られたような気さえした。多言語をまたぐ共通性が多少はあると念頭に置くだけで、語学学習へのハードルはずいぶん低くなると思います。
今井 言語の恣意性が、哲学・思想の領域でも君臨し続けていた、と。
千葉 僕ら理論屋には、「言葉には必然性がない」というのがある種の常識として刷り込まれたと、少なくとも自分の世代的感覚としては思っているんです。大学時代を思い出すと、かつて吉本隆明が『言語にとって美とはなにか』で書いていた、初めて海岸に出た人が「う」と声を出してしまったところから「海(う)」が発生するという話、それは一つの仮定の話ですが、そういう話に僕は疑問を持ちました。日本語では「海(う)」だとしても、英語やフランス語では違うわけで。それは恣意的じゃないかと。そういう身体的直観のようなものを言語の根底に置くことのナイーブさが否定されていた、と言うと強すぎますが、あまりそこは考えないようにする時代があり、僕自身、そういう教育を受けてきたと思います。