(『中央公論』2024年5月号より抜粋)
身体に流れ込む言葉
濱口 新聞書評だったと思いますが、共著『言語の本質』の紹介記事を読みまして、強く興味を持ちました。実際に拝読し、期待以上に面白かったですし、自分の職業に関わる本だとも感じました。
今井 ありがとうございます。私も濱口監督の映画に強い感銘を受けた一人ですので、そのようにおっしゃっていただけてとても光栄です。本のどのあたりが映画制作に関係してくると感じられたのでしょう?
濱口 映画制作にも言語と身体の繋がりを調整する、という側面があります。まず脚本が文字として書かれ、その文字を俳優がセリフや身振りとして身体化し、現実化するプロセスがあります。
ただセリフの多い、つまり言語中心の映画は、映画として一段劣るものと見られがちですし、私も一観客としてそう感じることはあります。
それでも私は、長らくセリフを書くことからしか映画を構想できないでいました。書いたテキストを俳優に発話してもらうことで、ようやく映画を立ち上げられるという事実は、自分自身の能力の限界として向き合ってきた課題でもあります。
限界のなかで映画を作っていて却って感じるようになったのは、言葉には体に働きかける力があるということです。演出家が与える指示のことではなく、俳優がある書かれたテキストを覚えて発話するという行為自体に、俳優の身体と言葉の思いがけない「出会い」の可能性があり、その出会いの衝撃は観客にまで働きかけるものと感じています。
『言語の本質』の前半では、オノマトペを切り口に「記号接地問題」について考察されているのを、特に面白く拝読しました。「木」のことを英語ではtree、フランス語ではarbreと言います。このように、意味は同じでも言語ごとにまったく異なる音になるので、言語は現実とは繋がらない恣意的な記号体系に過ぎないとの考え方に抗するように、この本では記号接地という、言葉と身体の繋がりの確立こそ言語の起源と見做しておられるように読みました。
今井 はい、おっしゃる通りです。乳幼児が短期間で母語という膨大な体系を理解できるのは、言葉が現実の体験や感覚とどこかで繋がっているからです。オノマトペのような具体的で感覚的にわかる記号を推論の連鎖によって抽象化していく。そのようにして作られた抽象的な概念が、身体の一部のように自然なものと感じられる。その連環を私たちは「ブートストラッピング・サイクル」と名付けました。
濱口 その言語と身体を繋げるプロセスは自分の仕事にもあるものです。
俳優が脚本のテキストを身体化するプロセスは、言葉から身体への接続と感じていますが、この本の記号接地をめぐる議論を読んで、身体側から言葉への接続という、逆の流れが見えた気がしました。自分の経験に強く響くものを読んだ、そのような実感があります。