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濱口竜介×今井むつみ「映画制作を通して向き合う、言語と演技の本質」

濱口竜介(映画監督)×今井むつみ(慶應義塾大学教授)

切断と接続

今井 私は昨年、濱口監督の『ドライブ・マイ・カー』を見て、すっかり圧倒されまして、しばらく虚脱状態になってしまいました。素晴らしかったです。


濱口 恐れ入ります。


今井 村上春樹さんの原作は、一種の密室劇のような短編です。妻を亡くした主人公である俳優と、緑内障になったその俳優に代わって運転手を務めることになった若い女性との車の中での会話に、主人公の回想が挿し込まれます。映画は小説の核となるモチーフを引き継ぎながら、ストーリー展開も映像もどんどん原作を超越していくような、そんな印象が強烈でした。

 原作にもチェーホフの『ワーニャ伯父さん』は出てきますが、映画では主にアジアから集まった俳優たちが多言語で上演する劇中劇として、よりいっそう重要さを増していた印象です。俳優たちがセリフの読み合わせを重ねていくにあたって、主人公は演出家として俳優たちに、セリフから感情表現を排して、ゆっくりと機械的に読むことを要求します。俳優たちはそれに戸惑うわけですが、棒読みされたチェーホフの言葉が劇のなかでも外でも何かを起こしてしまう瞬間が来る。原作にあったかすかなエッセンスがここまで展開されることに驚きました。また、映像の美しさに陶然としました。一生忘れられない美しさとして心に深く刻み込まれています。

 新作の映画『悪は存在しない』も、言語心理学者なのにボキャブラリーが貧困でお恥ずかしいのですが、とにかくすごい。すごいとしか言いようがない作品でした。強く印象に残ったのは、映像や登場人物たちが象徴するものが常に一つではなく、きわめて多様で多義的であることです。 人間はあることを想像力によって解釈し、拡張させる。受け手はそれを自分の想像力によってまた多方面に解釈する。その解釈のキャッチボールを楽しむ生き物なのだと強く思いました。そして「解釈のキャッチボール」こそがコミュニケーションの本質なのだと思います。

 著名な映画祭などで大賞を取った作品でも、強いメッセージ性がある一方で、一義的な解釈しか与えないものがあります。私はそういう作品には惹かれません。芸術作品として価値が高いのは、作り手の価値観を一義的に伝える作品より、受け手がいつまでも解釈を考え続けることをさせる作品だと思っています。その意味で『悪は存在しない』も『ドライブ・マイ・カー』も鑑賞者が一生解釈を考え続けられる作品だと思います。


濱口 ありがとうございます。今はひたすら全身でお言葉を受け止めておきます(笑)。今おっしゃった解釈の多様性や多義性は、本のなかで「言語の十大原則」の一つとして挙げられていた「超越性」に通じるものですね。


今井 おっしゃる通りです。言語が目の前に存在しないことや、過去や未来も語れてしまうこと、自分ではない他人のことや、動物や無生物の立場からも語ることができるという、「イマ・ココ」に縛られない特性を、濱口監督の映画からは絶えず感じます。


濱口 言語の超越性についての指摘はとても興味深く、自分の職業に引きつけて考えた箇所です。脚本を書くことからしか映画を作れずにいたと申し上げましたが、言語の超越性は自分が脚本を書くための条件でもあるな、と。「イマ・ココ」に縛られないから、自分のことでも他人のことでもない、どこにも存在しないことを現実であるかのように書ける。

 映画の脚本だけでなく、戯曲や小説もそうですが、書き物にすることによって自分の身体から言葉をいったん切り離せる。だからこそ、「嘘」もつきやすくなります。


今井 はい。まさにそれこそが超越性です。


濱口 たとえば「昨日の午後2時にどこにいた?」と聞かれて、「駅にいた」と答えてそれが嘘だった場合、本当に駅にいたとしたらどんな風に答えるだろうかと想像しながら、想像に合わせて言葉を発するわけですが、どんなに図太い人でも、その身体には微妙な濁りのようなものが生じるはずです。

 ところがこれがメールでのやり取りであれば、体の震えは相手には見えないので、嘘をつくことがかなり容易になる。この集積としてフィクションが書ける、ということはまず言えると思います。

 演技や映像はやり直すとしたらかなりのコストがかかりますが、脚本ならばすぐに書き直せるので、やはり脚本を推敲することが非常に経済的かつ適切な準備の方法になります。書き直しの障壁が低いのは、それが「イマ・ココ」に縛られず、質量を持たない記号の操作だからです。ただ問題は、一度切り離された言葉を、演技の段階ではもう一度俳優の身体に接続し直してもらえないなら、上滑ったフィクションにしか基本的にはならないということです。まさにこの言語と身体の切断こそが、利用しているものでもあるし、悩まされているものでもあるのだということを拝読して再確認しました。

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