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予備校文化の盛衰と拡散――市場性を利用した対抗運動とその帰結

藤村達也(奈良女子大学特任助教)

日陰的存在としての萌芽期─1900年代〜60年代

 教育社会学者の竹内洋によれば、明治30年代には中等教育機関卒業後に入試対策のために通う予備校が登場し、これが現在の予備校の源流だとされる。ただし、戦前期の予備校は現在と異なり、小規模な私塾の延長にすぎなかった。戦後になると新制大学への進学希望者による受験競争が激しくなり、浪人生や予備校が増加した。しかし職業としての予備校講師はまだメジャーな存在ではなく、大学教員や高校教員による兼業が多くを占めていた。予備校側に公教育や大学に対する対抗や自律の意識は弱く、「日陰」的存在であったといってよい。

 とはいえ、すでに予備校文化の萌芽は見られた。1960年代後半の予備校を取材したジャーナリスト
の草柳大蔵は、「受験技術のベテラン」だけでなく、授業で文学を語る「教養派」の講師が人気を博していたと述べている。こうした講師の代表例としては、英文学者で東洋大学の教員でありながら、駿台予備学
校でも受験指導を行っていた奥井
潔の名をあげることができる。奥井は「私にとっては、いわゆる『受験英語』なるものは存在しません」といい、サマセット・モームやグレアム・グリーンなどの小説や評論を教材として文学・人生を語り、旧制高等学校の授業を彷彿とさせていたという。

 このように、この時期において予備校は純粋な意味で大学の「予備」的存在であった。それは、入試だけでなく大学への学問に「予め備える」ための導きがあったという意味でもあるし、講師人材の供給源からして公教育や大学からの自律性は乏しく、従属的かつ日陰的存在であったともいえる。他方で、入試対策を中心とする「技術派」を中心としつつ、そこに収まらない「教養派」が存在するという、予備校文化を支えた講師の多様性はすでに見てとれる。

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