陸軍部内における機密費の統制
帝国陸軍であっても、最初から機密費をフリーに使用できたわけではない。第2次内閣を組織した伊藤博文首相は陸海軍大臣に通牒を与えて、機密費を「其管理の責全く主務大臣に属する」ものと位置づけ、会計検査院を経ないかわりに部内での管理を徹底するよう要請した(1893年6月)。伊藤のもとには参謀本部と憲兵司令部から提出された機密費支出調書が残されている(同年7月)。伊藤は議会ではなく、行政内部の管理を強化し、軍機密費の統制を図らせたのである。
陸軍部内では機密費の規定が設けられ、大臣の責任で管理体制が築かれた(1904年1月「機密費取扱規程」)。各軍組織には「必要の諸帳簿を備へ、証憑書類と共に確実に之を保存」し、秘密の漏洩を防ぐ目的を妨げない場合には「出納を明確ならしむ」ことなどが申し渡されている。一般に機密費は領収書のない金と言われるが、それは必ずしも正しくない。少なくとも最初に支出される段階で、領収書の発行は(簡易な受取証であることが多いが)必須であり、組織内部で厳格に管理すべきものとされていた。それは陸軍でも同様であった。
日露戦争最大の謀略として知られる明石元二郎大佐の対ロシア工作には、莫大な機密費が支出されていた。長岡外史(がいし)(当時参謀次長)の回想によると、その総額は100万円(現在の約80億円程度)にのぼるという。だが明石は金銭に几帳面で、極めて厳密に会計を記録していた。帰国した明石は余った謀略費用27万円を返還し、使途不明金はシベリア鉄道の便所に落とした数百ルーブルのみだったとの逸話も残る(稲葉千晴『明石工作』)。明石の例は参謀教育の題材にもされたというから、稀有なことには違いないが、明治期の陸軍が謀略に用いる金銭について、厳格な意識を持っていた証しになるだろう。
日露戦争期に定められた「機密費取扱規程」は、1918年のシベリア出兵に際して「機密費取扱手続」に改定された。機密費の出納命令官と出納担当官の兼任が禁じられ、帳簿の完備や10年間の保存が明記された。また3ヵ月単位での受払計算書・使途区分(目的、金額、支払先の身分氏名等)を含む、陸軍大臣への報告義務が強化された。ただ改定の直後、田中義一陸相の時代に軍務局軍事課長となった真崎甚三郎は、機密費の適正な管理を意見したところ、近衛歩兵第一連隊へ転出させられたと語っている。さらに1926年には陸軍機密費事件が問題となり、政友会総裁となった田中義一大将がシベリア出兵時の軍機密費を横領したとの疑惑が世間に広まった。この事件の告発には反田中派の陸軍将官らも関与していた。
この頃の田中派の機密費使途を窺わせる史料として、歴史学者の伊藤隆が1984年に紹介した畑英太郎の覚書がある。これは畑が軍務局長であった1923~26年の機密費支出について、日時、金額、支出先を記録した貴重な記録である(『昭和期の政治[続]』)。これによると、支出先の多くは政治家で、とくに「田中〔義一〕周辺の人物、田中の擁立を企図している人物が少なくない」。また陸軍との関係を持つ者や、1924年総選挙の支援と見られる交付もある。伊藤の紹介では省略されているが、たとえば親軍派と見られた森恪(つとむ)(政友会代議士)が、補欠選挙出馬に際して5000円の交付を受けたこともわかる(『評伝森恪』)。軍の協力者への機密費供与はすでに始まっていたのである。
畑局長の上司にあたる陸軍次官は「上原〔勇作〕一派の侵入を妨止して糧道を維持」したと自負する宇垣一成(かずしげ)や、白川義則・津野一輔(かずすけ)など、田中義一大将に近い将官であった。軍中央の機密費は大臣・次官・軍務局長などのごく限られた軍首脳による管理に委ねられていたが、そのため田中派には世間にくわえて、軍内部からさえも疑惑の目が向けられたのである。