死者の声を聞く日常
口寄ミコがありふれたものだったのは、何も東北地方だけではない。「死者の声を聞く日常」は、かつて日本中に存在していた。地域ごとに呼称の違いはあるものの、日本では戦前まで、死者の口寄せを生業とするミコたちが全国各地で活動していたのだ。
十返舎一九(じっぺんしゃいつく)の名作『東海道中膝栗毛』などは、往時の日常を示す好例だろう。日坂宿(にっさかしゅく)(現在の静岡県掛川市)の旅籠でミコを見つけた弥次さんは、「おいらが山の神をよせてもらをふ」と非常に軽いノリで亡き妻の口寄せを頼んでいる。また、同じ場面でなされた「ナニ巫子(いちっこ)だ。コリヤおもしろへ。ちといき口をよせてもらひてへもんだ」という喜多さんの発言も見逃せない。
生者の魂を呼び寄せる「生口」は、直接問えない相手の心情や状況を聞き出すための技法である。そんな生口は、行方不明者の安否確認のために実施される一方で、さながら恋占いのごとく、想い人の胸の内を探る目的でも多用され、座興として行われていたことが分かっている。喜多さんの発言は、こうした生口の娯楽的な側面を意識してなされたものだといえよう。弥次さんの様子が物語っているように、死者の口寄せにも同様の性格は少なからず認められた。
地方だけではない。江戸や大坂のような大都市でも多くの口寄ミコが活動していた。例えば、近世前期に書かれた井原西鶴や近松門左衛門の作品には、大坂天王寺の巫女町と呼ばれるエリアが登場している。口寄ミコには遊行の者が多かったが、一部の者たちは集団で定住し、巫業を営んでいた。いうなれば、都会の一角に口寄せに特化した専門店街を形成していたわけである。江戸の場合、亀戸の界隈に巫女町が見られたとされている。
だが、そんな巫女町も、明治末から大正の世になる頃には姿を消していったようだ。『日本巫女史』という大著を記した中山太郎は、1911年(明治44)に天王寺の巫女町を訪れている。当時、巫女がいると思しき家はすでに3軒ほどとなっており、中山はそこで口寄せを頼んだ。しかし、断られてしまったのだという。さらに、1917年(大正6)には、わずか2軒を残すのみとなった亀戸の巫女町に足を運び、再び口寄せを依頼しているが、やはり応じてもらえなかったと述懐している。二つの巫女町で口寄せを断られた理由は同じだ。それは、禁じられているからである。
国家主導のもとに宗教統制が行われた戦前、政府公認の組織に属さない民間の宗教者は、取り締まりの対象となっていた。1873年(明治6)に、教部省は口寄ミコの所業を「人民を眩惑」するとの理由で禁じ、翌年にはさらに「医薬等を差し止め、政治の妨害となる様な所業」という観点から、彼らの活動を規制している。その後、刑法で罰則が設けられたことで、これらの事項は犯罪となった。
明治期の新聞には、口寄ミコの摘発を報じる記事が多く見受けられる。こうした記事の豊富さは、皮肉にも、当時の社会に口寄ミコがいかに深く根を張っていたのかを物語っている。近代に入ってこそ禁制となった口寄ミコだが、彼女らは長らく、「ありふれた」宗教者として人々の生活のなかに溶け込んできた。つまり、日本には近代以降のある程度の時期まで、口寄ミコを通じて「死者の声を聞く日常」が存在してきたといえよう。