(『中央公論』2022年7月号より抜粋)
――大日本帝国と大英帝国は歴史の長さこそ違いますが、島国が海を越えて版図を拡大していった点などでは共通点があります。この二つの帝国は、国民の意識や植民地統治の手法などにおいても共通する部分が多いのでしょうか。
加藤 実態としては多民族国家だった大日本帝国は、植民地の人々に日本語を学ばせ、箸の上げ下ろしまで教えたくらい、日本人に同化させようとする方針が目立ちます。イングランド人とインド人やアフリカ人との間に明確な線を引いた大英帝国とは、アプローチがかなり異なります。
君塚 王室に関わる儀式でも違いは大きいですね。大英帝国の場合は、その威光を示す機会となりました。1887年、ヴィクトリア女王在位50周年の「ゴールデン・ジュビリー」には、デンマーク、ベルギー、ギリシャ、ザクセンの4人の国王、オーストリアやドイツなど8ヵ国の皇太子、アジア各国やハワイからも王族・皇族がお祝いに駆けつけています。
そして、97年の在位60周年「ダイヤモンド・ジュビリー」では、植民地の首脳が多く招待され、まさに「帝国」の祝典にしようという意図が見て取れます。バッキンガム宮殿前の目抜き通りを各国の制服や民族衣装を着た兵士たちが行進する光景により、大英帝国の威光を示したわけです。
加藤 日本では、民族衣装を着た植民地の兵隊が皇居前広場を行進することはありませんでしたし、国民にも自分たちが多民族国家の中心であるという認識はほぼなかったと思います。むしろ、植民地の人々が自分たちと同じような顔立ちで、同じような生活を送ってくれないとどうにも不安だという、一種の同調圧力が働いてしまうところに大英帝国との違いがありますね。
君塚 ただ皮肉なことに、ダイヤモンド・ジュビリーの2年後に第二次ボーア戦争(1899~1902年)が起こり、早期の勝利が予想された中、イギリス軍はボーア軍のゲリラ戦術に大苦戦を強いられます。戦争中の01年にヴィクトリア女王も逝去するわけですが、この数年間の体験は国民に大英帝国の「光栄ある孤立」という立場の脆弱さと、ボーア人の背後にいるドイツの強大さを痛感させることになりました。
1900年に渡英した夏目漱石の日記には、ハイドパークから女王の葬儀を見物したという記述もあります。帝国の栄光が過去のものになりつつあることを、漱石も感じ取っていたのではないかと思いますね。