加藤聖文×君塚直隆 日本とイギリス――二つの帝国の軌跡と交差から何を学ぶか

君塚直隆(関東学院大学教授)×加藤聖文(国文学研究資料館・総合研究大学院大学准教授)

成り行きで作られた帝国

――「帝国」というイメージは、イギリス国民にとっては必ずしも自明のものではなかったのですね。

君塚 歴史家のジョン・ロバート・シーリーによる『英国膨張史』(1883年)には、「イギリス帝国の発展は、当初より一個雄大な目的を樹ててその遂行を図ったのではない、ただ一つの功業より自然に他の功業を生み、歩々自然に建設せられたるものである」と記されています。皮肉として引用されることの多い一節ですが、シーリーは本心から書いたのではないかと思います。

 そもそもイングランドはローマ帝国の北端の辺境で、帝国を築けるような地理条件を有していませんでした。12世紀に成立したプランタジネット家(アンジュー家)による「アンジュー帝国」は、占領と外交戦略、そして婚姻によってスコットランド、アイルランドからフランス王国の西半分までを版図としますが、これが帝国と呼ばれるようになったのは後世のことです。

 そしてアンジュー帝国はフランス国王フィリップ2世との抗争に敗れたことで、13世紀初頭にはヨーロッパ大陸の領土の大半を失うわけです。このような経験がイギリスを、諸国がいがみ合うヨーロッパ大陸から大西洋へと向かわせました。

 結果として「ほぼ自然に」帝国となってしまったのであって、プロイセン王国の首相ビスマルクが統一ドイツ国家を構想したような計画性は、大英帝国にはなかったのだと思います。

 オスマン帝国やロシア帝国、あるいはオーストリア=ハンガリー帝国などの大陸の帝国と比べると、海洋帝国たる大英帝国は版図拡大という明確な意思のないまま、成り行きで広大な植民地を獲得してしまったところがあります。おそらく、望外に南洋支配を広げてしまった日本とも共通するのではないでしょうか?

加藤 確かにプロイセン王国の憲法を参考にした大日本帝国憲法が施行される1890年時点では、領土は日本列島しかなく、明確な版図拡大のイメージもなかったでしょう。その点では大英帝国と似ています。

 ただ、ヨーロッパと東アジアで事情が異なるのは、中国の存在です。東アジアは歴史的に、秦の始皇帝から清の愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)までの中華皇帝が中心に存在し、周辺国はそこといかに適度な距離をとるかに苦心してきました。朝鮮が中華皇帝から王位を付与され、半島の支配を認められる冊封体制に入ったのに対し、日本は「日出処の天子」が象徴するように、冊封体制に完全に従うでもなく、かといって対抗するでもない曖昧な立場を取ってきました。

 国内では天皇の臣下である室町幕府3代将軍の足利義満が、明の永楽帝から「日本国王之印」と勘合符を与えられ、外交的に日本国王を名乗るなど、皇帝や王といった概念は為政者の都合で融通無碍(むげ)に使われてきましたが、中国と対等な国家になることは時々の政体を超えた宿願だったともいえます。

君塚 岡本隆司(たかし)先生の『君主号の世界史』によれば、7世紀後半に成立した「天皇」という称号は、10世紀以降は使われなくなり、大日本帝国憲法で突然復活したそうです。中国やイギリスのみならず他国もどんどん「帝国」と「皇帝」を名乗る中で、対抗するためにエンペラーの訳語として持ち出されたのだと指摘されていました。

加藤 そうですね。そして「エンペラー」の称号を選択すると、国としては「帝国」を名乗らざるをえなくなります。

 もし日本が中国的世界観にどっぷりと浸かっていたならば、皇帝は世界に中華皇帝一人しか存在しませんから、国家元首にエンペラーを名乗らせることはしなかったでしょう。朝鮮の国王は冊封体制の内にいることが統治の正統性となり、日本は冊封体制の外にいることこそが統治の正統性となるわけで、日韓関係がこじれやすい原因の一つはここにもあるような気がします。

 結局のところ、海外に版図を拡大していくことよりも、中国と対等な国家としてヨーロッパ諸国と渡り合う意識のほうが強かったはずで、成り行きでヨーロッパ型の帝国主義国家になっていったのでしょう。

 台湾や朝鮮、さらに満洲国(現中国東北部)を支配下に置くにあたって、現地住民の権利を保障しようにも、憲法には何も規定されていない。では憲法を変えるかというと、欽定憲法なので改正もできない。このことからも外交上の選択として帝国を名乗ったことが見え隠れします。

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