加藤聖文×君塚直隆 日本とイギリス――二つの帝国の軌跡と交差から何を学ぶか

君塚直隆(関東学院大学教授)×加藤聖文(国文学研究資料館・総合研究大学院大学准教授)

怠慢と同化

――各国の王が競うように皇帝を名乗り始めたということですが、それでも「皇帝」の定義は揺るがなかったのでしょうか。

君塚 基本的には複数の国民、民族を支配するのが皇帝で、その下に諸国の王が仕えるという構造です。

 1801年に「グレート・ブリテン及びアイルランド連合王国」が成立した際、ジョージ3世は歴代のイギリス国王が自称してきた「フランス国王」の称号を廃止しましたが、「ブリテン諸島の皇帝を名乗ってはどうか」との進言も拒否しました。皇帝という言葉はナポレオンのイメージが強く、イギリスにはそぐわないと考えたようですが、ジョージの孫であるヴィクトリアは77年に「インド女帝」に即位しています。

 彼女自身の帝国主義的志向もさることながら、ロシア皇帝の娘と結婚した次男のアルフレッドや、プロイセン王からドイツ皇帝となったフリードリヒ3世と結婚した長女のヴィクトリアたちが、称号上で格上となってしまうのが許せなかったこともその理由でした。

 ヴィクトリアが女帝となってからは、イギリス王室は様々な手段で自国と植民地を「教育」していきます。植民地には女王の銅像が建てられ、40年に近代郵便制度が始まり世界初の切手が発行されますが、1ペニー切手のペニー・ブラック、2ペンス切手のペンス・ブルーともヴィクトリアの横顔が印刷されています。

 さらに子や孫たちに植民地各国を訪問させ、将来の皇帝たちの姿を印象付けさせています。このあたり、「御真影(ごしんえい)」はあれども、天皇の銅像や、肖像入りの貨幣や切手を「不敬」として作らない日本とは大きく異なりますね。

加藤 一部の要人や国学者などを除けば、ほとんどの日本人は近世まで天皇の顔を知らないだけでなく、その存在すら意識していなかったと思います。

 特に東国で一番偉いのは、何と言っても将軍であり、帝のことは念頭になかった。伊勢神宮も今でこそ天照大御神を祀る総氏神とされていますが、1869年に明治天皇が在位中の天皇として参拝するまで、天皇による参拝は記録に残っておらず、いわゆる「お伊勢参り」はあくまで庶民にとっての憧れの観光旅行であり、レジャーでした。

 その程度の認識しかない中で、明治以降に国民統合の象徴として天皇を活用するために、明治天皇の地方巡幸が行われました。これで初めて国民に向けて天皇の存在が視覚化されたわけで、巡幸は大正天皇、昭和天皇と引き継がれ、現在も行われています。

 ただ、イギリス王室ほどの頻度で巡幸が行われたわけではありませんし、明治天皇自身は植民地に赴くことはなく、皇太子が「巡啓」として台湾や樺太を訪問していますが、それほど足繁く巡啓したわけではありません。


君塚 イギリス王室の場合、国王自身も皇太子もかなりこまめに植民地を回りましたし、旧植民地がコモンウェルスとなった1949年以降も熱心に訪問してきました。現女王のエリザベス2世も53年の戴冠式のあと、半年をかけてコモンウェルスを巡幸しています。

構成:柳瀬徹

中央公論 2022年7月号
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君塚直隆(関東学院大学教授)×加藤聖文(国文学研究資料館・総合研究大学院大学准教授)
◆君塚直隆〔きみづかなおたか〕
1967年東京都生まれ。上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。専門はイギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治史。著書に『物語 イギリスの歴史』『エリザベス女王』『悪党たちの大英帝国』など。

◆加藤聖文〔かとうきよふみ〕
1966年愛知県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科史学(日本史)専攻博士後期課程修了。専門は日本近現代史、東アジア国際関係史、アーカイブズ学。著書に『満鉄全史』『「大日本帝国」崩壊』『満蒙開拓団』『海外引揚の研究』など。
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