その後、私は縁があって99年7月に国問研に就職することになった。そこで中山さんと期せずして同僚になった。アメリカ研究とアジア太平洋研究という二つのセンターには多くのプロジェクトが集中し、若かったこともあり、私たちは昼夜週末を問わず猛烈に働いた。中山さんとともに、数多くの上司の英文スピーチ原稿を起草し、海外からの訪問者と議論し、プロジェクト管理に勤しみ、次第に国際会議のスピーカーとして登壇するようになったことを懐かしく思い出す。
中山さんが政策志向型の研究に深く関与する転機だったと語る、2001年の9・11の際にも、私は中山さんと二人でテレビを食い入るように見ていた。深夜まで研究所に残り、公私にわたる話を重ねてきた共通の記憶の一端である。世界がどのように変化するのか、米国はどのように戦争に臨むのか、台頭するネオコンとは何か、グローバルな協調はどこまで可能なのか、といった課題を毎日のように議論した。
中山さんはその後、「米国共産党研究にみる政治的知識人エートスの変容」という博士論文を青山学院大学に提出した。その研究業績は高く評価され、06年に津田塾大学准教授、10年に青山学院大学教授に就任する。中山さんと私が再び同僚となるのは、彼が14年に慶應SFCの教授として就任してからのことだ。
慶應義塾大学で同僚となったころには、中山さんの活躍には磨きがかかっていった。その言論には価値へのコミットが反映され、曖昧さを許さない凄みが加わった。中山さんの凄みを感じた機会は数多いが、中でも彼が米ウィルソン・センター・ジャパンスカラーだった19年にワシントンDCで開催された日米安保セミナーは圧巻だった。
中山さんは「米国政治」というセッションで登壇し、米国政治の分断状況を選挙や議会分析を通じて見事に看破し、同じく登壇したカート・キャンベル氏(現NSCインド太平洋調整官)も舌を巻いていた。米国の第一線シンクタンカーや議会関係者を前に、米国政治を解題する日本人がいることを誇らしく思った。
米国の思想的分断を深く理解するからこそ、その分断のなかで保たれるべき日米関係を、中山さんは常に考えていた。だからトランプ政権下にあっても「日本にはプランB(他の選択肢)はない」という言論姿勢を明確に示した。