しかし、首脳会談での「手打ち」を反故にし、「許し難い暴挙」という言葉でロシアの国家元首を公開の場で非難する菅直人氏のような予測不能なポピュリストが指導する日本国家は、ロシアを攻撃する意図を持つ潜在的可能性があるという認識をメドベージェフ大統領を含むロシアの政治・軍事エリートが持ってしまった。そこで日本の潜在的脅威に対し、合理的かつ十分な対処をしなくてはならないという国家意思をロシアは固めたのである。二月九日付「ロシアの声」日本語版HPに掲載された、〈大統領:ロシアはクリル諸島の戦略的プレゼンスを強化する〉と題する以下の記事がロシアの今後の対処方針を端的に示している。
〈ロシアのメドヴェージェフ大統領は9日セルジュコフ国防相と会談し、「ロシアは、クリル諸島における戦略的プレゼンス強化のためあらゆる努力を傾けるだろう。ロシアにとって不可分の一部である、同諸島の安全を守るため、軍人達には、現代に見合った武器が保障されなければならない」との声明を表した。
大統領はまたクリル諸島について、「ロシアの切っても切り離せない一部であり、戦略的意義を持った地域だ」と断言し、『クリル諸島に投資家たちを「引っ張ってくる」必要がある。彼らのために、追加的な経済的特典を作り出す事を考えなくてはならない。この事について私は、この特典を利用できる我々の隣国を含めて、皆に言ってきた。そうした協力を自分にとって侮辱的だとはみなさないような国々が、協同行動に招待される』と強調した。〉
北方領土に正規軍を配置するとともに、日本以外の外国の投資を導入し、国際的に北方領土がロシア領であることを認知させる方向に踏み切ると宣言したのだ。
日本を封じる 「逆五段階論」
ロシアは北方領土問題で日本を封じ込める「逆五段階論」という戦略を立てていると筆者は見ている。これはソ連崩壊前のロシア共和国のエリツィン最高会議議長が訪日したときに提唱した「五段階論」を逆さにしたものだ。この原案は複数の日本人新聞記者によりつくられたものである(この点について拙著『交渉術』[文藝春秋、二〇〇九年]で詳しく記した)。もっとも原案は日本人がつくったものであっても、エリツィン氏はそれを政治決断によって採用した。そして、ソ連崩壊後、独立国家ロシアの大統領になった後もこの「五段階論」に基づいて北方領土問題を解決する方針をとり続けたのである。一九九〇年一月十六日、東京都内の「アジア調査会」で行ったエリツィン氏の講演から関連部分を引用しておく。
〈北方領土問題は5つの段階を踏みながら解決すべきだ。というのはソ連の世論の中には「領土問題は存在しない」という長い間の固定観念があり一挙に解決するのは不可能だからだ。
一部の人のようにソ連の指導者が「四島すべてを譲渡してしまえ」と言ったとしたら、今の状態ならその指導者はとたんに更迭されてしまう。
第1段階:ソ連の側から領土問題は存在していると公式に宣言する。これはゴルバチョフ議長(当時)の来日時に実現する。
第2段階:四島を日本にとって自由興業地帯とし、日本からの移住も簡便化する。「最恵国待遇」を日本に与えるわけだ。この段階までに必要な期間は2、3年だろう。
第3段階:四島の非軍事化を実施する。しかし、これは簡単には進まないだろう。四島はソ連の国家に所属しているというよりソ連軍に所属しているからだ。
第4段階:日本側に歩み寄ってもらい平和条約を締結する。平和条約締結は領土問題解決に向けてのプロセスを促進すると考える。この4段階までを15年以内に実施したい。実現すれば(北方四島の)中でも肯定的な変化が生じるだろうし、日ソ関係はあらゆる分野で飛躍的に改善しよう。
第5段階:最終的に問題を解決するのは我々の次の世代だ。その場合、次の世代に押しつけることにならない範囲内で3つのバリエーション(選択肢)を提案することができる。それは?四島を日ソ両国の共同管理、共同庇護のもとに置く、?四島を自立した自由な島とする、?日本に引き渡すことも除外されない、の3点だ。次の世代には考え方も新しくなり、政治、文化、世界情勢、安全保障問題も変化し、相互理解、世論も好転しているだろう。ありきたりではない解決策を見つけ出すのではないか。〉(『われらの北方領土 二〇〇九年版(資料編)』外務省、三五頁)
エリツィン氏の「五段階論」から修辞的内容を取り去ると以下のようになる。
第一段階 領土問題の存在を認める。
第二段階 北方四島を自由興業地域にし、日本からの移住を簡便化する。
第三段階 北方四島の非軍事化を実施する。
第四段階 平和条約を締結する。
第五段階 次世代で領土問題を最終解決する。北方四島の将来の形態としては、共同管理、独立の特別地域、日本に引き渡しの三つの選択肢がある。
第一から三段階は実現されたので、日露両国は第四から五段階を包括的に解決する交渉を進めていたのである。メドベージェフ大統領はこの段階を反対の方向に動かす「逆五段階論」をとっている。それは次のようになる。
第一段階 将来、北方四島を日本に返還することはないと宣言する。
第二段階 日本側が北方四島の返還を要求し続けるならば、ロシアは日露平和条約の締結に固執しないという立場を打ち出す。
第三段階 現在、非軍事化されている北方四島に正規軍を再駐留させる。
第四段階 共同経済活動を提案し、日本側に拒否させる。それを口実に現行のビザ(査証)なしでの日本人の北方四島訪問制度を廃止する。
第五段階 第二次世界大戦の結果を変更することはできないので、日露間に領土問題は存在しないという立場を正式に表明する。