政治・経済
国際
社会
科学
歴史
文化
ライフ
連載
中公新書
新書ラクレ
新書大賞

前原外相の訪露と陰徳

佐藤優の新・帝国主義の時代
佐藤優

国旗侮辱問題も鎮静化させた

 さらにロシア国旗侮辱問題でも、前原外相はロシア世論の鎮静化に成功した。二月十一日の会談の後、前原外相とラブロフ外相が共同記者会見に臨んだ。その席で、ロシア人記者の質問に対し、前原外相は、「国旗の案件については今警察で調査しているところだ。日本の刑法には、九十二条で他国の国旗に対する毀損行為は刑法に違反するとの条項があるので、仮にそういった案件が認定されれば、法に照らして処罰されることになる」と答えた。ロシアのインターファックス通信などが「日本の外務大臣がロシア国旗に対する侮辱行為は処罰されると約束した」と報じ、ロシア世論が鎮静化に向かった。さらに、翌十二日、前原外相は、ラジオ「エホー・モスクビ(モスクワのこだま)」に出演したときにもロシア国旗侮辱問題についてこう述べた。

「ラブロフ外務大臣との会談ではこの問題についての言及はなされませんでした。しかし、共同記者会見のときに、ロシアの記者が質問しました。私は、現在、日本の警察が捜査を進めているところであると言いました。日本の法律では外国国旗を毀損した者は処罰されます。興味深いことですが、日本人が日本国旗を毀損してもそれを処罰する条項はないのです」

「エホー・モスクビ」は、政治エリート、知識人、マスコミ関係者に人気のあるラジオ局だ。ここでの前原外相の発言を聞いたロシア人は、日本政府が裏で糸を引いてロシア国旗を侮辱する事件を右翼団体に起こさせ、ナショナリズムを煽り立てているという見方が誤解であるという認識を持った。

 二月十五日に日本大使館前で、日本国旗が燃やされ、警備施設に生卵が投げられる事件があった。〈ロシア外務省のルカシェビッチ報道官は17日、治安当局が容疑者を逮捕したことを明らかにした。大使館に入った連絡によると、逮捕者は3人で、うち1人が暴力行為で罰金を科せられ、未成年の2人は保護者に引き渡されたという。〉(二月十七日『毎日新聞』電子版)。前原外相がロシア国旗侮辱行為に対して、共同記者会見やラジオ放送で日本政府の立場を説明していなかったならば、日本国旗の焼却や侮辱事件がもっと多く起きたであろう。また、ロシアの官憲も犯人を処罰することはなかったと思う。

 北方領土交渉においても前原外相は所与の条件下、できるだけのことをした。エジプトの政変に関するニュースと重なったため、前原外相訪露については十分な報道がなされなかったことが残念だ。外交のプロの目から見て、前原外相はよくがんばり、「マイナスのミニマム化」に成功した。日本の新聞は詳しく報じなかったが、二月十二日にモスクワの日本大使公邸で行った前原外相の会見を詳細に分析すると、前原外相がタフネゴシエーターであることがわかる。

 前原外相は、「領土問題については日本の立場をしっかりものを言い、ただマスコミ等を通じて議論するのではなくて、お互いが顔をあわせて信頼関係をもって静かな形で議論していこうということで、ラブロフ外相、あるいはナルイシキン大統領府長官と合意できた」と述べた。報道や記者会見を通じてではなく、政府間の外交交渉で領土問題を解決するという合意は極めて重要だ。さらに平和条約を迂回しようとするロシアの動きに対しても前原外相はきちんと釘を刺した。「お互い、やはり平和条約を早期に締結することが両国にとってはためになるという点では一致していたし、今後はそういった離れて言葉の応酬をするのではなくて、会って、また電話会談も含めてお互いの意志を確認しながら、疑心暗鬼になることなく議論しようということについて合意できたことは大変良かった」と前原外相は述べたが、このような信頼醸成措置が現下の日露関係では何よりも重要だ。

 意地の悪い目つきであら探しをするのではなく、虚心坦懐に事態を観察すれば、前原外相がラブロフ外相、ナルイシキン大統領府長官と互角の交渉をし、日本に有利な成果を引き出したことがわかる。

 二月十九日の枝野幸男内閣官房長官(兼北方担当大臣)の北方領土視察に関し、同二十日付の「ロシアの声」は、〈枝野官房長官は「北方領土に関する自分の発言は、ロシア政府との対決に向けられたものではない」と述べた。

 19日、枝野幸雄官房長官は、兼務する北方担当相として、南クリール(北方領土)を日本領空から視察し「島は、思った以上にものすごく近い。私が実感した近さを皆が知れば、この問題に対する関心は大きくなるのではないか」と語った。これに対し、ロシア外務省は「そうした発言は『ロシア側と静かに建設的に話し合いたい』とする長官の以前の発表と食い違う」と指摘していた。〉と報じた。枝野官房長官の北方領土視察に関し、ロシア側は「信頼関係をもって静かな形で、疑心暗鬼にならずに議論するという前原外相との約束は生きていますよね」と日本側にシグナルを送り、枝野長官が、「北方領土に関する自分の発言は、ロシア政府との対決に向けられたものではない」と返事を返したので、情報のキャッチボールが成立したのだ。

 不良債権処理のようなマイナスのミニマム化の仕事は、一般には評価されにくい。菅首相、枝野官房長官も対露関係における前原外相の陰徳をどこまで正確に理解しているかわからない。しかし、このような地味でマスメディアから評価されない作業が、日露関係のこれ以上の悪化を防ぐために不可欠なのである。前原誠司外相の対露外交を等身大で評価することが重要と筆者は考える。

(以下次号/二〇一一年二月二十五日脱稿)

(了)

〔『中央公論』2011年4月号より〕

1  2  3  4