「令和のレッドパージ」の怪
もちろん政権側の日本学術会議の新会員任命をめぐる動きには、不可解、不明朗な面があり、対抗勢力に不備を突かれる隙が大きくある。不用意で稚拙な政策と受け止められても仕方がない。政権は六名の任命を拒否して、日本学術会議や学術界全般に、いったいどのような効果をもたらしたいのか。政策によって達成しようとする目的が明確にされず、取った手段に対する効果もはっきりしない。日本学術会議を改革しようとしているのであれば組織や選出方法の改革案を出せばよい。もし日本学術会議に妨害されて困難になっている政策があるならば、日本学術会議の持つ権限(ほとんどないが)の制約が及ばない既存の制度や新制度を利用すればいい。そもそも何をしたいのかを明らかにせず、取れる手段を取ってみせもせず、単に人事案を突き返して「こんなものを受け取れるか。忖度せい」というだけであれば、世間に多くあるパワハラ上司の行動様式と変わりなく、要らぬ反感を買うことは想像に難くない。
菅政権の中枢が、日本学術会議を単に毛嫌いして、政治闘争に火をつけてその勢いで潰してしまおうとしているのであれば、法で定められた国家機構の末端に連なる日本学術会議に対して、政府機関内で政争を繰り広げているということになる。これは為政者としての失態を自ら晒すに等しいのではないだろうか。
任命拒否に込められた為政者の意思は、その根拠や目的や期待される効果を、首相や周辺が一切口にすることがないが故に、拒否された会員候補のリストから推測するしかないが、そこからは「アカはいかん」という昭和の時代に戻ったかのような認識が浮かび上がる。さらに「あいつはシンパではないか」という猜疑心もえる。国会では与党が磐石の多数派議席を確保し、野党が支持率を極端に下げた状況にあるが、政権担当勢力としての可能性を長らく失っている政党が、辛うじて政権に一矢報いようとして確保した政府組織の末端の席を引きはがすことに、政権にとってどれほどの政治的優先度があるのか。それは就任直後の政権が断行する「人心一新」の対象として適切だったのか。本来であれば新政権の前向きな展望を国民に示していくことが期待される時期に、時代錯誤の「令和のレッドパージ」を発動することで、「人事を用いて無言で自らの組織の末端を締め上げる」陰険な為政者としての印象を、広く世間に広めてしまった。
学術界には特段の関心もなく、共感もほとんど持たない世間一般の人々にとって、日本学術会議の内実や選考過程などはおそらくどうでもいいことである。より重要なのは、時の為政者の統治の性質であり、その手法である。さほど重要ではない細かな人事にまで介入して締め上げるという手法を世に示したことは、学術界よりもむしろ、政府諸機関に上から下まで萎縮効果を生じさせる負の効果を及ぼしただろう。 「令和のレッドパージ」は、コロナ禍のなかに陰鬱で不安に陥りがちな世情の「気」をさらに冷え込ませる、大局的に見れば失策だったのではなかろうか。売る価値のない喧嘩を、抵抗しようもない弱体化した組織と勢力に、就任早々に売ったことに、意思決定の中枢の硬直化や多様性のなさを、国民の多くが感じ取っただろう。日本学術会議を擁護し、日本の学術界の将来を憂える国民はそう多くはないだろう。しかし日本の政策中枢の意思決定の硬直化、集まる人材と情報の多様性の縮減を憂える国民は多いのである。
また、問題の発覚直後には、政権与党の重鎮や、野党からの転入組を含む与党代議士たちが、TwitterやFacebookなどのSNSを用いて、日本学術会議会員には「年金が付く」「数百億単位の研究費を差配する」といった虚偽の言説を拡散し、日本学術会議が中国の軍事研究に加担しているといったありえない主張や、任命拒否された人物が中国のスパイとして公安にマークされているといったデマをまことしやかにほのめかす場合すらもあったことは危惧すべき事象である。