三顧の礼で日本航空CEOに
そういう意味では、私が民主党政権の国土交通相となり、稲盛さんにお願いした日本航空の再建についても、受けられたのは「全日空1社ではいけない」という思いからだったのでしょう。実は、稲盛さんは全日空派だった。その理由も、「親方日の丸」体質の日本航空より、「荒武者のように日本航空に果敢にチャレンジしていった全日空の方が自分の性に合っている」からだと、稲盛さんは常々おっしゃっていた。
私が国交相になった時、後に財務次官となる香川俊介さんが、「前原さん、国交省には地雷があるよ」と言ってきた。地雷とは日本航空で、急速に経営状況が悪化していると言う。私も、民主党「次の内閣」で国土交通担当だったので、日本航空の経営状況が極めて悪いとは知っていました。それで、大臣就任後、すぐに「JAL再生タスクフォース」を作りました。弁護士の高木新二郎先生を中心に事業再生の専門家5人に参加してもらい、徹底的な資産査定をしました。すると、「かなりひどい」となり、これは追加融資でその場しのぎをしていても無理だろう、抜本的な解決をしなければならないという結論になりました。
「企業再生支援機構」をプラットフォームに使って、日本航空を再生させる案がまとまりました。支援機構の瀬戸英雄委員長の下で、日本航空を潰すまではできても、その後、経営を立て直すにはCEO(最高経営責任者)が必要です。これはもう稲盛さんしかいないということで、私も瀬戸委員長も、タスクフォースのメンバーもみな一致し、私がお願いに伺うことになりました。
小沢さんの件で激怒させた八重洲の京セラに行くと、稲盛さんは「何や」と。「日本航空を立て直せる経営者は、稲盛さんしかおられない」とお願いしたら、にべもなく「断る」と言われました。「俺は航空会社の経営をしたことないからな」と言うのですが、「それで日本航空の現状はどうだ」と聞くのです。状況を説明して、債権放棄はなんとか道筋がついたと伝えました。そうしたら「そうか。でも、俺は受けんぞ」と言う。その日は「では失礼します」と帰りました。
日本航空が東京地裁に会社更生法の適用を申請するのは2010年1月19日に決まっていた。そのXデーが刻々と近づいてきて、やはり稲盛さんしかいないということで、1週間後にまたお願いに行きました。「今日は何の用事だ」と聞かれて、「CEOをお願いしたいと思って参りました」と伝えると、「こないだ断ったやろ。俺は受けんぞ」と言いながらも、「で、日本航空は今どうなっているんだ」と聞かれる。長いお付き合いなので、もう完全に脈がある、関心があると分かるんですよ。恐らく、経営者として京セラを育てた誇り、自信、そして社会においてはやはり競争が必要で「一強」は駄目だという思いと使命感をお持ちでした。私からは、「国内線の6割は日本航空で、運航停止になったら日本の経済は大混乱に陥る。1便も止めずに整理をしなくてはいけない」とお伝えしました。
三顧の礼とはよく言ったもので、3回目に行った時は、もう引き受けられるお気持ちでした。ただし、一つだけ条件を出されました。私的整理ではなく、法的整理にして、会社をいったん潰すようにということです。実は瀬戸委員長も法的整理派だったのですが、国交省内ではどういう形がよいのかまだ判断しきれていなかった。稲盛さんは簿外債務を心配しておられました。私は、引き受けてもらえるとなったので、「分かりました。それで結構です」と言った。それが日本航空の法的整理が決まった瞬間でした。
その後、稲盛さんにステーキを食べに連れて行ってもらいました。当時、京セラの八重洲のビルに、京都で有名な「ゆたか」というステーキ屋さんが入っていたんです。私はヒレを頼みましたが、稲盛さんはサーロインでした。稲盛さんは当時78歳。「すごいな」と思ったのを覚えています。
稲盛さんがCEOに就任してからも、時々電話で話をしました。最初に言われたのは「ひどい会社だ」ということでした。「コスト感覚が全くない」ともおっしゃっていた。小集団単位で採算を管理する「アメーバ経営」を唱えた方です。各部門で徹底的なコスト管理をやることがアメーバ経営の神髄です。日本航空は「鉛筆の値段を聞いても、弁当の値段を聞いても分からん」とかいろいろおっしゃっていた。
稲盛さんには、日本航空のことでも2度、怒鳴られた。最初はLCC(格安航空会社)についてです。
3年3ヵ月と短命の民主党政権でしたが、その間に23ヵ国・地域とオープンスカイ協定を結びました。羽田の国際化を進め、成田空港で使える発着枠が増えたので、全日空に「日の丸LCCを作ってほしい」とお願いしました。当時、全日空の常務だった竹村滋幸(しげゆき)さんが、消極的だった社長の伊東信一郎さんを説得して作ったのが、LCC「ピーチ・アビエーション」なんです。
そこで稲盛さんに「日本航空再生計画にLCCを入れてもらえませんか」とお願いしたら、「そんなもの入れん!」と怒鳴られました。破綻した日本航空ブランドをどう立て直すかと考えている時に「LCCはあかん」と言うのです。稲盛さんは、日本航空のロゴマークに昔ながらの「鶴丸」を復活させました。ブランド力で会社を再生させようとしていたのです。
もう一つあります。世界の航空会社にはグループがあり、日本航空は「ワンワールド」所属です。航空局から、将来性があるのは北米線なので、グループは違うがデルタ航空と組む方がいいとの話がありました。ワンワールドの北米線はアメリカン航空です。この話を稲盛さんに電話で伝えたところ、また激怒されて、「いちいち口を出すならお前が経営しろ」とガチャッと電話を切られました。その後、機会を改めてお話ししたら、「前原君から頼まれたのは、短期で再上場するということだった。だから重要なのは、ブランド力の回復。もう一つは問題を起こさないことだ」とおっしゃいました。「デルタに乗り換えたら、アメリカンは様々な手を使って邪魔しに来る」とも注意されました。米国には独占禁止法があり、デルタに乗り換えたら、提訴されるかもしれない。稲盛さんは、どうやれば最短でうまくできるかを考えられ、そのためには、敵を作らないということを徹底されたわけです。(談)
(続きは『中央公論』2022年11月号で)
構成:向井ゆう子
1932年鹿児島県生まれ。鹿児島大学工学部卒業。59年、京都セラミック(現京セラ)を設立。社長、会長を経て97年から名誉会長。また84年に第二電電(現KDDI)を設立し、会長に就任。2001年に最高顧問。10年に日本航空会長に就任。代表取締役会長を経て12年名誉会長、15年名誉顧問。1984年に私財を投じ稲盛財団を設立すると同時に国際賞「京都賞」を創設。2022年8月24日逝去。
◆前原誠司〔まえはらせいじ〕
1962年京都府生まれ。京都大学法学部卒業。松下政経塾を経て、91年京都府議に初当選。93年、日本新党から衆議院議員初当選。新党さきがけを経て、96年に旧民主党に参加。2005~06年、民主党代表。09~12年の民主党政権で国土交通相、外相、党政調会長などを歴任。民進党代表も務めた。