観念論と心配り
──政策への評価はいかがでしょう。
辻元 前原さんは経済で安倍さんと相当激しくやりあっていたでしょう。「あなたは『デフレは貨幣現象だ』とおっしゃいましたよね」と。あのときのやりとりについて、前原さんに聞いてみたかったんですよ。私は安倍政権に対するジャッジとして、黒田(東彦(はるひこ))日銀総裁(当時)と組んで行ったことはうまくいかなかったというのが結論だと思うんです。賃金が上がってないし、経済成長していないわけだから。
前原 彼はかなり観念論の人なんですよね。私は保守という立場では通ずる部分もあって、出来の悪い法制ではあるけれど、集団的自衛権の解釈変更(2014年)をやった点では安全保障法制について一定の評価をしています。ただ、あのとき集団的自衛権を認める場合の法律的根拠としていた事例はすべて覆ったんです。なのに、「北朝鮮がアメリカ本土にミサイルを撃ったとき、インターセプト(迎撃)するためには集団的自衛権行使が必要だ」という極端な話をしてしまう。これは観念論から入っているからなんですね。私だったら、現実主義に基づいて日米安保の脆弱性がどこにあるかを考える。すると、いわゆる武力行使の一体化に行き着きます。朝鮮半島で有事が起きた際、「武力行使の一体化は憲法違反なので」という理由で後方支援をやめられるかといったら、現実的にはおそらくやめられないわけですからね。
アベノミクスについても同様です。初めの頃は「デフレは貨幣現象だ」と言い切っていたし、2~3%の物価上昇を目指すとしていました。でもその数字には根拠がなかった。さらに黒田総裁に異次元の金融緩和をさせ、最終的には「いくらでも財政出動してかまわない」「いくら借金してもいい」、挙句の果ては「日銀は政府の子会社だ」とまで言っていました。ですが、本当にいちばん大事だったのは成長戦略と構造改革だったはずです。
また、しばしばアベノミクスについては「金融政策はA評価、財政出動はB評価、成長戦略・構造改革はE評価。つまり『ABE』だ」と言われますよね。E評価については私も同意です。国家戦略特区を設けて、まずは成功事例を作って日本全体の成長戦略にしようという趣旨だったのが、加計学園の件があって「自分の知り合いに便宜を図るためのものだったのではないか」ということになってしまった。あるいは、ダボス会議で「岩盤規制を砕くドリルの刃になる」とおっしゃっていましたが、では何をやったのかといえば実現できていないわけです。先ほど「いい意味でお坊ちゃん」と言いましたが、安倍さんが国のことを本当に思っておられたのは間違いないと思います。けれども安全保障にしても経済にしても、観念論による決め打ちになっていた。そこは取り巻きの方々の影響もかなり大きかったと思います。
辻元 そう、観念論なんですよ。集団的自衛権を議論していた際、子どもとお母さんが乗った輸送艦のパネルを記者会見で出してきたことがありましたよね。このような状況も集団的自衛権の根拠にはなりえないと批判されましたが、感情に訴えて国民を味方につけようという下心が丸見えで、安全保障をめぐる議論の際にあんなパネルを使うこと自体、論外だと思いました。そういうふうに、論理性や合理性とは少し違う次元で物事を進めようとされるところがあったと思います。
それと、前原さんが先ほど加計学園のことをおっしゃったけど、あのとき私は国対委員長だったんですね。落ち着いて政策議論をしたいのに、森友や加計、桜を見る会と次々に出てくるものだからどうしてもその疑惑追及をやらざるを得なくて、それが嫌でしたね。そういう事態が繰り返し起こる政治に対してすごく不信感があった。
前原 ただ、我々はやはり権力を握らないと何もできないわけで、第1次政権でああいう辞め方をした安倍さんを「もう一度総理にするんだ」と多くの人が支えたことは見過ごしてはいけないですよ。それはやはり安倍さんの人徳や人柄、人を巻き込む力によるものでしょう。党の仕事で全国各地を回っていると、多様な業界団体の方から「選挙のときに安倍さんから直接電話をもらった」という話を聞くんですよ。自民党総裁だから当然かもしれないけれど、「この人のために、頼む」と連絡して回っているんですね。面倒見は非常に良かった。
私もいっぺん電話をもらったことがありました。2017年に九州北部豪雨が起きたとき、福岡県朝倉市に視察に行ったんですね。避難所でいろいろお話を聞いたら、お年寄りが非常に苦労されていると。というのも、今ほど段ボールベッドが普及していなくて、避難所の床にみなさん直接寝てらしたんです。どうしたものかと思っていたときに、ある議員を通じて段ボール業界からベッド提供の申し出がありました。
これは渡りに船だと思って、当時官房長官だった菅(義偉)さんにすぐ電話して提案したんです。すると「やります」と動いてくれた。その後、安倍さんが視察に行って「これはいいね」という話になったとき、菅さんから「前原さんに言われてやったんですよ」と聞いたそうです。それですぐに電話をかけてきた。いかに国会で激しくやりあっていても、そうした心配りがあるとこちらも悪い気はしないじゃないですか。やっぱり人たらしなんですよね。
繰り返しになりますけれど、私はアベノミクスには今も否定的だし、集団的自衛権も結果オーライではあれど武力行使の「新三要件」はひどいし、立法根拠も非常に観念的だと考えています。でも個人としては人間的魅力があったことは間違いない。だからすごく複雑な思いがあります。
──お二人とも国葬は欠席し、前原さんは葬儀には参列されましたね。
前原 国葬となると政治家としてやったことに対する評価が入ってくると考えているので、参列しませんでした。一方で、長く接した分、思い出も多いですから、増上寺でのお葬式には足を運びました。
辻元 私は政治家と国葬というものがそもそもなじまないと考えているので行きませんでしたが、増上寺には自然と「行きたい」という気持ちになりました。飛行機が遅れて間に合わず、中には入れなかったんですが......。思想信条やイデオロギーが違っても、志半ばで命を絶たれるのは無念以外の何物でもないことは同じです。だからこそあれだけ激しく議論をしてきた者として、哀悼の意を表したいと思いました。
亡くなったという第一報を聞いたとき、安倍さんの笑顔が浮かんだんですよね。というのも、総理をお辞めになった後に衆議院議員会館の地下の廊下でばったり会ったんですよ。そこで「安倍さん辞められて、質問できへんの寂しいわ」って言ったんです。そうしたら本当に満面の笑みで、「いやぁ、僕はほっとしてます。これからは菅さんと存分にやってください」と答えて立ち去られて。総理大臣という鎧を脱いで憑き物が落ちたような、等身大の柔和な笑顔でした。そのときの笑顔が浮かんだんですよ。亡くなる前にこの会話ができたことで、国会で激しくやりあっているときのいがみあいのような対立の関係ではなく、良い形で終われたのは私にとって救いでした。
前原 それは実は私も同じです。あの参議院選挙の前、通常国会のほぼ終わる頃に、衆議院第一議員会館の事務所から本会議場に向かっている途中で安倍さんと偶然会ったんです。周囲には他にも人がいたんだけど私のところに来て、「前原さんはいろいろ活動されていて、本当に選挙強いね」と話しかけられました。参院選の応援で京都に行ったときに私の話になったらしくて。「いや、地盤も看板も鞄もないし、野党だから必死にやらんと勝てないんですよ」と返して、そこから最近の体調を聞いたりしながら、本会議場まで二人だけで歩いて行ったんです。30年近くずっと一緒に議員活動させてもらって、国会でも特に第2次安倍政権ではかなり議論をしてきたけれど、あのときはお互いが素に戻って話していた。数週間後に亡くなられたので、それが最後のやりとりになりました。あそこで会えて良かったと思っています。
(続きは『中央公論』2023年6月号で)
構成:斎藤岬 撮影:米田育広
1962年京都府生まれ。京都大学法学部卒業。松下政経塾を経て、91年京都府議に初当選。93年、日本新党から衆議院議員初当選。新党さきがけを経て、96年に旧民主党に参加。2005~06年、民主党代表。09~12年の民主党政権で国土交通相、外相、党政調会長などを歴任。民進党代表も務めた。
◆辻元清美〔つじもときよみ〕
1960年奈良県生まれ。早稲田大学教育学部卒業。学生時代にNGO「ピースボート」を創設。96年、衆議院議員選挙に立候補し初当選。NPO法、被災者生活再建支援法などの成立に尽力。国交副大臣、首相補佐官、国対委員長などを歴任。著書に『声をつなぐ』などがある。