(『中央公論』2024年4月号より抜粋)
- インテリアデザインを担当
- 昔の派閥は本音で話ができた
- 田中派、竹下派から高村派へ
- 女性初の派閥領袖として
インテリアデザインを担当
派閥を超えてみんなが自由に語り合って楽しめるフロアを作ろうということで、リバティー・クラブができました。
私は当時、32歳で初当選した最年少女性議員ということもあって、このフロアのインテリアデザインを頼まれました。党本部のほかの会議室とは一味違う、ちょっと夢のある空間にしようじゃないか、というのが私の思いでした。
8階フロアに降りて正面の部屋は、外国の来賓をお迎えできるような格調高い内装を意識しました。右に曲がった喫茶スペースは真っ赤な椅子に床は黒と白という、大胆で明るい感じにして、ほかの部屋にもきれいなカーペットを敷きました。一見して「ああ、変わったな」となりましたよ。今ではすっかり事務的な感じに戻ってしまいましたが。
当時の東京都知事は革新系の美濃部亮吉さんで、女性にとても人気があった。京都でも共産党が強かった。自民党がこうした革新勢力を超えていくには、やはり女性の支持が必要ではないかということで、女性向けの党機関誌『りぶる』を創刊し、リバティー・クラブのデザインを私に頼んだのです。
当時の自民党婦人局(現在は女性局)は全員が女性議員でしたが、やはり男性に女性の意識を理解してもらう必要があると思い、私が婦人局長になったのを機に、初めて男性議員にも入ってもらいました。しかも共産党が強い地域の男性議員を、と思い、最初に頭に浮かんでお願いしたのが京都選出の衆議院議員、野中広務さん(のちの内閣官房長官)です。私のもとで婦人局次長として入ってもらいました。女性層の支持をつかみ、京都を革新勢力から取り戻すために、一緒に頑張りました。
――山東さんは田中角栄元首相の要請を受けて政界入りし、鉄の結束を誇った田中派に所属しました。
私が初当選したのは50年前です。田中角栄という人に初めて会ったのはその前年ですから、もう51年前のことになりますね。今では歴史上の人物となり、直接会って仕事をしたことのある人は政界でも小沢一郎さんたちぐらいで、ほとんど存在しなくなってしまいました。
田中総理は私が文化人によるテレビの政治討論会に出演し、自民党支持を表明したのをご覧になって、「なかなかしっかりしている人じゃないか。連れてきなさい」とおっしゃったそうです。
それで、田中派にいた渡部恒三衆議院議員と5、6人で食事をしていた時に、渡部さんが「政治はなかなか面白いもんだよ」「総理のところに会いに行こう」と言い出したんです。彼は、私が女優時代に出た映画を観てファンになったそうで、選挙応援を頼まれたことがきっかけで知り合いました。私も田中角栄という人に非常に興味があったので「ぜひお会いしたい」と言って、国会近くの砂防会館の事務所を訪ねていきました。
初対面の私に、総理は開口一番、「ああ、死んだ息子と同い年なんだな」と。さらに驚いたのが、「わが国は女性議員が少なすぎる」とおっしゃったのです。
公明党、共産党、社会党は組織があるから、女性が選挙に出やすい。しかし、自民党にはそういう組織がないから女性が出にくい。だから、「正論を主張する女性政治家になってもらいたい」と。
私が「親戚に大臣を経験した者はおりましたが、私自身は大学で政治学を勉強したわけでもないし......」と躊躇していると、「初めからプロの人は一人もいない。必要なのはいろんな人に会って、いろんなことを吸収する能力があるかないかだ。君はあるから、応援するからね」とおっしゃいました。
「それでは、もう少し勉強して3年後に」と私が言うと、「いや、すぐにだ。政治家として物になるには10年かかるから、早く出なくては駄目なんだ。選挙はタイミングだ!」。それで決まりました。
意外でしたね。田中角栄という人が、そこまで真剣に女性について考えていたなんて。あれから何十年も経った今でこそ、みな「女性が大事だ」などと言っていますけれど。
もしもあの時に決断していなければ、その3年後にはロッキード事件がありましたから、私が政治家になることはなかったでしょう。政治はタイミングが大事なのだと痛感しました。
ちなみに3年後の1977年参院選では、私の政界入りを見て、福田派が宝塚出身の扇千景さんを擁立して初当選しています。