一九八七年の首都圏 大停電の教訓
ゼロ・オプションの場合、電力の需給関係のバランスが悪くなって、需要の増大が供給能力を上回りかねない事態の時、どうするか。私たちは、実はこの冬の寒さの厳しさのなかで、今まさにその事態に近づいていることが、連日報じられている。また、過去にも何回か経験があった。記憶している人は少ないかもしれないが、一九八七年七月二十三日に首都圏で大規模な停電が発生した。この場合は酷暑によって、冷房に予想以上の電力が使われた結果の停電で、災害や事故とは全く関係のない、純粋に需給バランスの崩れを理由として起こった、歴史上他に類例のない事件であった。
そして「三・一一」後、東北電力、東京電力、関西電力の圏内で起こった計画停電、及び法的拘束力の伴う夏季節電要請がある。当時電力会社は、老朽化によって休止していた火力発電施設までも、急ぎ整備し直して稼働させる、という応急措置をとったが、大きな危機であったことは間違いがない。それでも、完全な無力状態に陥らなかった背景には、それなりの対応があったからである。
あまり知られていないことかもしれないが、電力会社では、一九八七年の大停電を教訓として、需給バランスの危機に対応できる揚水型発電所の開発を、業務用高電圧、家庭用低電圧ともに大規模に進めてきていた。最も顕著なのは、利根川水系をめぐる幾つかの施設である。なかでも利根川支流の神流川発電所は、一九九七年に着工され、二〇〇五年に第一号機が運転を開始、すべてが完成すれば二八二万kWという、おそらくは世界で最大の発電量も持つ施設である。また相模川系の葛野川発電所は、一九九九年に稼働を始めるが、総発電量は一六〇万kWである。もっとも、これらはすべて揚水型であって、需要が逼迫した際には、力強い味方となるが、その機能はそれだけのものと言える。
従って、二〇一一年の東日本大震災に際して、東京電力の多くの発電所が機能不全に陥った際には、電力の供給は未曽有の危機を迎えた。休眠中の旧型火力発電所まで動員しても、それで需要を賄うにはほど遠く、結局は「計画停電」なるものを繰り返し、工場などは休業を余儀なくされる事態となったことは、記憶に新しい。
この時期には、日本でも、各国の例に倣って、所謂電力の自由化が緒についていた。一九九五年に初めて法的な整備が行われ、二〇〇一年には、発送電の分離が行われかけたが、旧電力会社の側の時期尚早の見解が勝って見送られたのも原因となって、新規発電企業の参入は、中々捗らなかった。しかし、旧電力会社間の越境契約などの事例も生まれ、工場やマンションなど、個別の消費機関と新電力会社との契約も徐々に進んで、二〇二〇年には発送電分離が実現することになった。