人間は生き物が好きではない
「生物多様性」は、一九八〇年代にアメリカの生物学者ローゼンによって作られた概念である。生物多様性は聞いたことがあっても、内容を正確に把握している人はいまだにそう多くない。それは、そもそも人間はさほど生き物が好きではないし、それが生物としての本能だからである。
あらゆる生き物は、基本的に別種の生き物と敵対関係にある。個体レベルで見れば自分以外のすべての生き物と敵対関係にあると言っても過言ではない。食料を含めた資源を取り合い、より多くの子孫を残すための競争相手であるという意味では、本来、わかりあえるはずがないのだ。
人間が生き物を好きと言えるのは、生活環境が整い、身体的な、あるいは社会的な安全が保障されている状態だからであり、本来の野生の世界に生きていたら、そんなことが言えるはずがない。だから、「多様な生き物がいることが大事だ」と言われても、すぐに納得するのは難しい。
ここ数年、クマなどの野生生物が山から街に下り、襲撃の被害が増えているが、これも野生生物は隙あらば人間の棲家や食料を奪おうとしているからだ。かつての里山にはいつも人間がいて、襲われることもあったが、人間の側も彼らを殺して食べていた。そこに自ずと境界線が生まれた。それがかつての「自然共生」の姿だった。しかし、人口の減少などによってその境界線が揺らぎ、野生生物は単に農作物などの被害にとどまらず、人間の命を奪う天敵になりつつあるとも言えるだろう。
もう一つ、生物多様性が注目されにくい理由は、気候危機問題(地球温暖化)のように、気候の変化によって大災害が起きたり、経済的に大打撃を与えるというような、人間社会にはっきり目に見える形で被害を起こすことが少ないからであろう。
さらに言えば、生物多様性の重要性を訴える生物・生態学者は生き物好きが多いため、それを前提にして語っていることも一般人には響き難くしていると思われる。
生物多様性が重要なのは、人間もまた生物だから、他の生き物と相関関係を持たなければ生きられないからである。食料や資源として、きれいな空気や水を生み出す機能としても他の生物はなくてはならない。だからこそ、生物多様性を維持し、管理し、共生していかざるを得ないのだ。つまり、生物多様性は人類が生き続けるための必須要因なのである。
二〇一九年、世界的な政府間組織であるIPBES(生物多様性及び生態系サービスに関する政府間科学─政策プラットフォーム)は、一〇〇万種程度の動植物が絶滅の危機に瀕していること、絶滅速度は過去一〇〇〇万年間における絶滅の平均速度を一〇~一〇〇倍も上回ると発表して警鐘を鳴らした。
生物進化の四〇億年の間には、地殻変動や隕石の落下、巨大火山の噴火などで、地球上の生命の七〇%以上が死滅する事態が少なくとも五回起きたとされている。そして、生物絶滅は二〇〇万年以上かかって徐々に進行したと考えられているが、現代の私達が引き起こす環境破壊による生物の絶滅速度は、過去の大絶滅よりも圧倒的な速さとされる。
ただし、実は地球上にどのくらいの種がいるのかはよくわかっていない。そのため、少々の種が滅んでも大きな問題はないという説があるのは事実だ。その一方で、生態系というネットーワークは非常に複雑に繋がっているため、重要なパーツを成している系が抜けてしまうだけでも、取り返しのつかない瓦解が起こるとも考えられる。飛行機のリベット(締め釘)が多少抜けてもすぐには墜落しないだろうが、重要なリベット、取り替えのきかないリベットもあるはずだ。人類は、生態系のネットーワークにおける決定的なリベットが何であるのか、そのメカニズムも含めて把握できていない。そのことが一番大きなリスクになっている。だから、現状を維持することがリスク管理として妥当だ、というのが生物多様性保全の原理である。
生態系自体がレジリエンス(復元力)を失うと、多くの生き物が生きていけなくなる。人間は一個の生物としては極めて脆弱で、一対一で対峙した場合には小動物にさえ勝てない。そこで、社会を作ってきた人間は、社会の基盤が崩壊したらたちまち死滅してしまうだろう。だから、環境を維持しなければならないし、その環境を作り出している生態系、その生態系を支えている生物多様性を守ることが重要な課題となるのだ。