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杉山 慎 南極の氷が融けると世界はどうなるのか?【上】

――気候変動による氷床融解のリスク
杉山 慎(北海道大学教授)

南極の氷に起きていること

 南極の氷は増えているのか、それとも減っているのか。このシンプルで根本的な問いに、長らく研究者は答えられなかった。南極氷床が大きすぎて、測定が難しいからである。氷の変化を正確に測定できるようになったのは、ようやく21世紀に入ってからのこと。人工衛星による観測技術の発達で、最近20年間余りの変動データが得られるようになった。

 前述したIPCC第6次評価報告書によれば、南極氷床は1992~2020年の28年間で2670ギガトンの氷を失っている。2670ギガトンは氷床全体のおよそ1万分の1にすぎないが、日本に降る降水量の4年分、日本人が使用する生活用水の200年分に相当する。それだけの氷が融けた結果、海水準が7.4ミリメートル上昇した。

 なぜ氷が減っているのか。意外にも、「気温が上がって氷が急速に融けている」わけではない。南極の気温は低いので、多少の温暖化で融解が大きく進むことはない。むしろ温暖化によって降雪量が増える可能性が高い。それでも氷が減っているのはなぜか。

 結論から言えば、先述した棚氷の「カービング」と「底面融解」が増えているのである。南極への温暖化の波は大気からではなく、実は「海」から押し寄せている。温度が上がった海水が棚氷の底面を融かし、薄く弱くなった棚氷が氷山として崩れ去る。その結果、棚氷に抑えられていた内陸の氷の流れが加速し、より多くの氷を海へ吐き出しているのである。

 たとえば、南極最大の氷流出を誇るパインアイランド氷河(やや紛らわしいが、氷床上の流れが速い場所を「氷河」と呼ぶ)の末端部では、2003~2019年のあいだに氷の厚さが40メートル減少した。ざっと10階建てのビルの高さに相当する氷が失われたことになる。

 氷の減少に先立って、棚氷の縮小と氷河の流動加速が観測されており、棚氷の底面融解とカービングが氷河をむしばむ様子が確認されている。また2002年2月には、南極半島のラーセンB棚氷が突然崩壊して、東京都の面積の1.5倍に達する氷が失われたことも判明している。その直後に内陸の氷河が加速して、棚氷が消えた海に大量の氷が流れ出しはじめた。いずれも南極の沿岸部、氷と海の境界で起きた変化である。

 このように、近年の観測から氷床の縮小が明らかになった。しかしながら付け加えておくと、南極で失われる氷の量は、いまのところ他のエリアと比べて少なめと言える。先述したように、グリーンランド氷床の体積は南極氷床の10分の1ほどだが、1992~2020年のあいだに4890ギガトンの氷が消失している。実に南極が同期間に失った氷の1.8倍である。また、大きさとしては南極氷床の1パーセントにも満たない山岳氷河も、グリーンランド氷床と同じくらいの氷を失っている。

 これらふたつの氷床と山岳氷河の融解は、近年生じている海水準上昇の原因の約半分に相当する。

【図6】2004 ~ 2010 年に生じた海水準上昇の原因内訳(Arctic Monitoring and Assessment Programme, 2017)

残りのほとんどは海水温の上昇による熱膨張で、これに永久凍土の融解や地下水の流出が加わる。そんな中で、南極氷床の融解が占める割合は10パーセントにも満たない。なんだ、南極よりグリーンランドや山岳氷河のほうがよほど一大事じゃないか、と思われるかもしれない。しかし私たち研究者は、南極氷床の大きさから考えると、この数字はむしろ不気味な印象すら覚える。南極は温暖化には無縁なのか。本当に急激に融解することはないのだろうか。

南極の氷に何が起きているか

杉山慎 著

日本の面積の約40倍に及ぶ〝地球最大の氷〟こと南極氷床。極寒の環境は温暖化の影響を受けにくいと言われてきたが、近年の研究で急速に氷が失われつつある事実が明らかになった。大規模な氷床融解によって、今世紀中に2メートルも海面が上昇するという「最悪のシナリオ」も唱えられている。不安は現実のものとなるか。危機を回避するためにすべきことは。氷床研究の第一人者が、謎多き「氷の大陸」の実態を解き明かす。

杉山 慎(北海道大学教授)
〔すぎやま・しん〕
1969年愛知県生まれ。93年大阪大学大学院基礎工学研究科修士課程修了。 93年より信越化学工業で研究開発に従事。 97年から2年間青年海外協力隊に参加し、ザンビア共和国の高等学校で理数科教員をつとめる。 2003年北海道大学大学院地球環境科学研究科博士課程修了。博士(地球環境科学)。スイス連邦工科大学研究員、北海道大学低温科学研究所講師、 同准教授を経て17年より同教授。南極や北極、パタゴニア等で大規模な氷河氷床の調査を主導。単著に『南極の氷に何が起きているか』、共著に『なぞの宝庫・南極大陸』『低温科学便覧』『低温環境の科学事典』など。
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