シリコンバレー・イデオロギー
マスクの原点は、1999年に共同で立ち上げたネット決済サービス企業、Xドットコム(のちのペイパル)だ。この前後には紆余曲折があるわけだが、いずれにせよマスクは2002年、ペイパルをイーベイに売却し、初めてまとまった財を成した。このときマスクと共にペイパルに関わっていた人々──特にピーター・ティール──は後に「ペイパル・マフィア」と呼ばれ、起業(このうち数名が立ち上げたのがユーチューブやリンクトイン)や投資(ティールらはフェイスブックへの初期投資者として有名)を通じてその後のシリコンバレー・スタートアップの勃興に大きな影響を及ぼした。マスクの出身は南アフリカで、学んだ大学はカナダやアメリカ東海岸だが、大人になってからはアメリカ西海岸のシリコンバレーの文化にどっぷり浸かってきたといえる。
彼らペイパル・マフィアは同じ釜の飯を食った仲間ということもあり、ペイパル後も付き合いは深く、似た信念を共有しているようだ。彼らの中にはティールのように自らの思想について著書や論考などで積極的に発言している者もいれば、マスクのように断片的なツイートくらいでしか述べていない者もいるが、昔から傍目八目というように、当事者より一歩退いたところから見たほうが構図がよくつかめるものである。
基本的に技術者と投資家の世界であり、政治や思想とは無縁だと思われていたシリコンバレーの人々に、漠然と共有される文化あるいは感覚があるということを、おそらく初めて指摘したのが、イギリスのメディア学者リチャード・バーブルックとアンディ・キャメロンだったのは多分偶然ではない。彼らが1995年に発表したエッセイ「カリフォルニアン・イデオロギー」によれば、シリコンバレーの思想とは「ヒッピーの自由奔放な精神とヤッピーの起業家的熱意を乱雑に組み合わせた」ものであり、60年代のカウンターカルチャーに由来する反権力・反権威主義と、テクノユートピア的技術決定主義という左翼的な信念と、リバタリアニズム的急進的個人主義や経済的成功への信仰といった右翼的な信念との奇妙な混合物だった。さらにジャーナリストのポーリナ・ボルスックが2000年に発表したルポ、その名も『サイバー自分勝手』(Cyberselfish)では、シリコンバレーを中心としたテック・カルチャーが当時から、実力主義やリスクテイクへの信仰と一体の傲慢さや性差別に毒されていたことを活写している。下地はすでにあったのだ。
とはいえ、大手テック企業の従業員らの政治献金の多くが米民主党に向かっていたことからもわかるように、シリコンバレーの基調は長年にわたってリベラルで左派的だった。しかし近年ではマスクを筆頭に、単純な保守反動ではないものの、どちらかといえば右寄りの思想を持つことで知られる人々が増えている。