鈴木涼美 男性の眼差しで女性を二分する境界線など、器用に行ったり来たりすればいい(サガン『悲しみよ こんにちは』を読む)
軽薄に見えても正しく見えてもどちらも脆い存在
父とともにくだらないことに愛着を持ちながら、まだ右にも左にもいける自由さを持って生きるセシルは、アンヌほど断言すべき信念はなく、エルザよりは思索する人間だと自分を位置付けています。アンヌから結婚の話を聞いた直後には、「不意にわたしは、騒がしいディナーやあの南米人みたいな男たち、エルザみたいな女たちを見くだしていた。心のなかに、優越感と自尊心が広がった」と、アンヌの知性と洗練によって変わるであろう生活を思い描くのに、父とアンヌと3人の対話が始まると、「彼女がいると、非難や良心の呵責のなかに落ち込んで、心のうちでしっかり考えることもできなくなり、自分を見失ってしまう」とアンヌのまさに知性と洗練を恨めしく思うようになります。何より、アンヌという圧倒的に良質でバランスの取れた正しい存在が入ってくることで、自分と父の自由が脅かされるのを嫌いました。「父とわたしにとって、内面の平穏を保つには、外部の喧騒が必要なのだ。そしてそれを、アンヌは認めることができない」。そして、自分の恋人とエルザをうまく利用して、父とアンヌを別れさせる計略を巡らせるのです。その自分の心境の変化を夏の暑さのせいにしながら。
この計略は結局、冒頭の有名な一文でセシルが「悲しみ」と呼ぶような感情に帰結します。この物語が重要であるのは、最初から取り替え可能であることが示唆されていたエルザという愛人は確かにアンヌという本物の愛らしきものを育む相手によって簡単に脅かされたものの、アンヌもまたエルザという愛人の存在によって脅かされるからです。アンヌはエルザに一種の余裕を持って接していますが、父がたとえ単純な女好き・狩り好きの側面でもってでも、或いは何か若さや元気の良さや男らしさのようなものの証明としてでも、エルザを再び求めることはあってはならないことでした。セシルの計略はそのアンヌの自意識を見抜いた上のものでした。「アンヌがけっして耐えられないことに、次のような点もあった。それは自分が、その他大勢のひとりにすぎない愛人になってしまうこと。いっときだけの存在で終わってしまうこと。彼女のプライドと自己評価の高さが、わたしたちの暮しをどれほど大変にしていたことか......」。
その意味では、軽薄に見えるエルザの存在も正しく整って見えるアンヌの存在も脆いのです。17歳の夏、セシルは当初、そのことには気づいていませんし、高校生の私にもそれは意外な事態でした。そして結局、存在が壊れてしまうのはアンヌだということは重く心に引っかかっています。「わたしは、観念的な存在などではなくて、感受性の強い生身の人間を、侵してしまったのだ」と、セシルはアンヌの脆さを自覚します。