「富岳」の正体⑤ コロナ治療薬の候補を富岳で特定――創薬シミュレーションの実力 

奥野恭史×聞き手:小林雅一

巨額のプロジェクトを社会に活かす

─ちょっと失礼な質問かもしれませんが、臨床試験なども含めればコロナ治療薬の製品化には恐らく数年はかかるでしょう。富岳のようなスパコンを使った科学研究をコロナ対策のような即効性が要求される取り組みに導入するのは、かなり無理がある試みにも思えますが、科学者の立場から率直なご意見をいただけないでしょうか。

 一部、そういう面はあるかもしれません。しかし我々の研究において、世界で誰もやったことのない精密なシミュレーションを行っていくつかの候補物質を挙げることができたのは、科学的に大きな意味があると自信を持って言えます。

 もう一つ申し上げておきたいことは、シミュレーションの意義を改めて理解したということです。今回、海外の論文を読んでいるときにハタと気づいたのが、コロナのような深刻な感染症は、我々現代の日本人は初めての体験だったということです。

 逆に中国や韓国、台湾などは過去にSARSを経験していました。コロナは「SARSタイプ2」と分類されます。つまりSARSが変異した新型SARSなので、中国など東アジア諸国の研究者たちは過去の研究の蓄積があったわけです。

 これに対し我々、日本の研究者は蓄積がほぼゼロに近かった。ゼロから実験を初めて行って研究していくとなると、すごく時間がかかってとても追い着きません。

 ところが我々は幸いにして富岳のシミュレーションによって、SARSを経験したアジア諸国が何年もかけて研究をしてきたリードを一気に縮めることができた。これは、それなりの意味があったと思っています。

 一方でシミュレーションの限界も痛感しました。あくまでも計算ですので、その先は実際の医療現場で安全性や有効性を確認する必要があります。たとえばニクロサミドを飲んで誰か一人でも亡くなってしまったら、えらいことになるわけですね。そこについては富岳とは別の次元できっちりやっていただかないといけません。その線引きは、自分も含め関係者の間でしっかり決めておかねばと思っています。

─最後の質問ですが、スパコンを使ったシミュレーションは理論、実験と並ぶ科学の「第三の柱」と見られています。が、その一方でスパコンや加速器など巨額の予算を使う科学領域の意義を疑問視する声もあります。その存在価値を国民に理解してもらうためには、これから何が必要になってくるでしょうか。

 世界の状況を見渡せば、今後、創薬のようにクリティカルな分野ではスパコンがなければ絶対にやっていけません。特に京から富岳になって、分子シミュレーションの世界は本当に一つ殻を破ったんですね。単なる研究ではない、実用化に向けた圧倒的な可能性を、我々科学者は肌身で感じています。

 そこで僕らが懸念するのは、実験をする科学者の数と計算(シミュレーション)をする科学者の数があまりにも違うことです。仮に実験ができる人が一万人いるとしたら、計算ができる人は一〇〇人しかいない。たった一パーセントですよ。

 先程、「富岳で二〇〇〇種類以上の薬剤候補のシミュレーションができる」と言いましたよね。これと実質的に同じことを実験でやろうとすれば、時間もお金もすごくかかります。

 また精度の面でも今回、考えさせられるところがありました。コロナに対しては、薬剤候補の可能性がある共通の化合物(レムデシビルなど)を世界中の科学者が寄ってたかって実験で評価しています。注目度が高いですからね。でも、その実験結果がバラバラなんですよ。

─つまり、ある研究者は「これはコロナに効く」と言うし、別の研究者は「効かない」と言うわけですか。

 そうです。実験というものが、いかにブレているかということですね。これまではシミュレーションと実験の結果がずれていると、実験を専門とする科学者から「お前ら、また、でたらめな計算をしただろう」とかボコボコに言われていました。でも、今回わかったのは「実験だって、めちゃくちゃやんけ」と。(笑)

─むしろシミュレーションのほうが正しいんだ、と。

 まあ、そこまで失礼なことを申し上げるつもりはありませんが、我々のほうでも言うべきことをきちんと言えるようにするためには、まず人材を育てていかないと。

 中国は近年まで製薬産業が遅れていた分、これから産業を興そうとするときに「白紙」の状態から始められる。ゼロから始めるから、計算科学者と実験科学者の比率も現代に合わせてバランス良く配分できるわけです。日本の場合、そこがすごく実験側に偏っている。

 これから日本は人口が減っていきますし、中国のような量産体制ができていない。一人が何百倍という生産性を持つ必要があるわけですね。そう考えると、計算ができるプロフェッショナルをちゃんと育てて、その人と実験の専門家がしっかり協力できる体制を整える必要があります。

─シミュレーションによって、実験では叶わなかったある種の効率性や生産性がアップするのですね。

 その通りです。巨額の予算を投入した富岳のようなスパコンを作りっぱなしじゃなく、それを戦略的に使っていけるような体制を整備していかないと、世界から取り残されてしまうと思いますね。

 


 このインタビュー記事は簡略版です。完全版は小林雅一著『「スパコン富岳」後の日本』(中公新書ラクレ)でご覧いただけます。

〔『中央公論』2021年2月号より抜粋〕

「スパコン富岳」後の日本

小林雅一

 世界一に輝いた国産スーパーコンピュータ「富岳」。新型コロナ対応で注目の的だが、真の実力は如何に? 「電子立国・日本」は復活するのか? 新技術はどんな未来社会をもたらすのか? 莫大な国費投入に見合う成果を出せるのか? 開発責任者や、最前線の研究者(創薬、がんゲノム医療、宇宙など)、注目AI企業などに取材を重ね、米中ハイテク覇権競争下における日本の戦略や、スパコンをしのぐ量子コンピュータ開発のゆくえを展望する。

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奥野恭史×聞き手:小林雅一
◆奥野恭史〔おくのやすし〕
京都大学大学院医学研究科
ビッグデータ医科学分野教授。

【聞き手】
◆小林雅一〔こばやしまさかず〕
KDDI総合研究所 リサーチフェロー。
1963年群馬県生まれ。東京大学理学部物理学科卒業。同大学院理学系研究科を修了後、東芝、日経BPなどを経てボストン大学に留学、マスコミ論を専攻。慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所などを経て現職。『AIの衝撃』『AIが人間を殺す日』など著書多数。
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